日本人のための憲法原論読書感想追記

 
歳くれ明け読み終える。西欧で生まれ4世紀以上にも及ぶ栄枯盛衰の壮大な憲法の歴史物語。垣間見る。血で血を流す人間の醜さ、人類社会のそうした過ちを辿るなかから、少しずつ現在の有る欧米国の憲法の歴史的変遷を紐解く。性悪と反面教師の連続なのだろうか。著の性格からか、憲法とはそうした必然があるからか。恐らく後者なのだろう。歴史に潜む、本質的跡を出来る限り伝えている(のだろう)。他の書籍をいくつも読んでいないと(だろう)としか自分は返答できない。憲法がつくられ民主主義がつくられ、2つは全く異なる次元からつくられ今に、結びついているようだ。ただ一回読んだだけの一読者。正直申すと、様々な歴史的実例を引っ張りだし、某の結論に導く性急さが気になった。確かにそう解釈もできるが俗説に落ちる疑心を回避するには、付記された参考文献や信頼に足りる硬学の書籍も照参しながらでないと、これだけを信頼することはわたしには出来ない。語るに落ちた口話体調は、大衆がまんま受けて売れそうな代物にも思える。識を引き出し驚きの面白さを与えるは著独自のフィクション。という印象があった。トンデモネタばりなフレーズを賑わせて憲法原論とは甚だ仰々しいそんなタイトルとはまるで思いもよらないほど、かみ砕いた簡易さで、へぇーそうなんだ。へぇーまるでトリビアの泉かな、読者に分かりやすくわかっていただく(答え)に安易に帰着させる言説の進ませ方の癖、なんかクサイ。自分と同じ理系の頭に似ていて、自分の悪文と同類の反面教師。そんな歯痒さもあった。どちらかといえば改憲に向く読者には近しい一冊とみえるが著者はどちらであろうと、どちらも半端者。それ以前に君たちに伝えておきたいことがあるから、これを読め。という主旨であるようだ。改憲派護憲派(の立場の私も)かなり安易に望む箇所を本から取り上げては理屈に使ってきたことも。著を読み、思い返すなり、自分もかなり反省したいところだ。 ドイツ独裁者が当時世界で一番進んだ憲法とされるワイマール憲法憲法に背くことなく履行し、全権委任法によってワイマール憲法は事実上死んだ。とみる。世界の憲法学者の妥当な判断である。敗戦で没落したドイツ国は、不安と失望が蔓延する人々は、ヒトラーの奇なる経済復興策が功を成し活況のなか絶大な支持を得る。著では、その歴史で教わる一般的理解に『第一次大戦後の反省から他国では平和主義思想が席巻するが、それを逆手にとり利用し』失われた領土を取り戻すべくドイツは最軍備、領土併合、ポーランド侵攻、第二次大戦。という下り。 【全権委任法とは…法律を制定する権利(立法権)をすべて政府に与える法。本来、法律の制定権は立法府である議会のものであり、行政府のものではない。議会政治の基本中の基本、どの憲法もその主旨で作られている(日本人のための憲法原論,p18)】全権委任法はヒトラーが首相に就任した2ヶ月後1933・3・23に法成立(翌日公布・施行)。
 今のこれまでの日本の政治はどうだろうか、今の日本政治は、政府行政⇔立法議会、それぞれの権限の役割は忠実なんだろうか。憲法が死んだままの状態の国政となっていやしないだろうか。また、この歴史的実例と見比べ今の、日本政治社会とがどこか、酷似するものがないだろうか、よく見抜き、よく見守り、よくして発していきたい。
 厚い本のほんの数ページのなかだが『平和主義云々』の部分は自分の歴史認識に抜け落ちており、ショッキングだったが、なるほど歴史的実例の一つを紹介し、そこから百人百余の解釈が導くものがあり、まったくとんでもないことだ。(と頭を抱えた。)


※追記/1・11 著はこの平和主義が次の大戦の引き金となった、と、あからさまな核心的命題でないにしても、因果的に結びつけている節がある。解釈改憲者はこのエビデンスを引き合いに、今後も発していくことだろう。程度の低い大衆誘導、ご都合の知識をパッチワークに悪しき本性を正論化するための言語ゲームに落ちかねない。最近そんな本が山と積まれて、並んでいるのだから、ほんと身の毛がよだつ。慎重にみないとならない。何かの原因で戦争が起こる、その当事者(政治家、官僚、財界)と彼らの持つチカラ、(政治権力、行政権力、利権)によって引き起こされる。内紛、犯罪、テロ、はそれに外れるだろうが、しかし、それを戦争の芽とするのはその限りではないこと、もっといえば、そうしたマッチポンプを引き起こし、戦争拡大を起こすのは前者の人間たちなのだから。廬溝橋事件、WTC爆破テロ、こうした犯罪を引き起こす人間が、自分たちを脅かす、つまり国と人々を脅かす、外部からの内紛、犯罪、テロにうつしかえ、戦争拡大に民を誘導させてきた過去の実例をみれば、平和主義の危うさ、という概念の是非よりも、もっと戦争がはじめられる最もの要因を、しっかり私達がよく理解してからのうえである。戦争は集団殺戮であり人間の手によって行われること。そうした人間がどういう人間であるのか、どうしてそんなことができるのか?、戦争を因果として検証するなら、平和との短絡的二項対立と結びつけ、概念によって第二次大戦前の(その程度の)平和主義思想と同程度に留まることだろう。平和という努力、人類の不断の努力はそこで留まることだろう。今の安倍や、彼ら取り巻きの提唱する積極的平和主義、原発の平和利用、と言葉を逆手にとり、実際には海外派兵や核利用へと話しを進ませている。権力を持つ政治家や官僚や財界らが、用いる平和という一語は、我々の理解する平和とは全く異なる別次元で、政治利用してしまうのだから。当時ドイツの独裁者のしたことと似たレベルでやっているのだから。この著を読む戦争支持者たちは、語るに落ちたこの短絡命題で、平和主義を戦争要因と結びつけ対立させ、引き合いに出し、卑下したがっていることだろう。平和主義を戦争の要因だとする(憲法九条が駄目だという、ネットウヨ、戦争支持者)はもっと思慮を深めたほうがよかろう。戦争と平和とは【対立や因果】ではない。二つは(仏教でいうところの)【縁起】であろう。(西欧でいうところの、相対、位置、関係)である。戦争を引き起こす原因とは、もっと現実の他の場所にあるから、そこをみないといけない。これから先、もしも平和主義という概念が憲法で抹消されるなら、非戦社会を実現するための未来は、土台なし崩し状態にする。戦争は権力の側からはじめられ、相対的【縁起】を画策しながら、これから私たちの国にも、押し付けられることだろう。子々孫々、平和とは、ただの幻想として理解されていく。以下最近読んでいる加藤周一『戦後を語る』2003・9の講義録を一部抜粋する。

 きょうは希望の話です。いま希望を持つことはわりにむつかしいことだと思います、そして、何をなすべきか、たとえば、健康、環境、対外関係、戦争というような問題よって違います。少し具体的なことにふれたいと思い、きょうは例をとって語りたい。
 まず戦争の話です。イラクで戦争が続いています、日本政府は戦争を支持しています。戦争に対しどういう態度をとるか、どういう希望があるのか。
 戦争には希望はないと思います。すればするほど事態は悪くなるでしょう。ですから、希望はどうすれば戦争をやめられるだろうかという問題になってきます。
 日本はたえず戦争をしてきました。明治維新以降は西南戦争以来、だいたい10年に一度は戦争をしています。日清戦争から10年たつと日露戦争、さらに10年たつと第一次大戦、また10年たって日中戦争、そして第二次大戦です。しかし今は、日本の近代史上はじめて50年間以上戦争をしていない。少なくとも公式に、海外で日本の軍隊が戦闘行為に入ったことはない。したがっていまの若い人は戦争を具体的に経験していません。私は84歳で戦争を経験しましたがどういうものなのか経験を通して簡単にお話しします


恐れおおくも国の憲法を本当に作り変える気があるのならスピノザのエチカぐらいはちゃんと読むべきだろうよな、ゲーテルやヴィトゲンシュタインラッセルも、先ずは憲法に触れるまえに作り手の心の隅々にまで最低限の教養を敷く必要があるだろう。卑近の利害価値ばかりに支配され、私利私欲にまみれた低脳輩が、選り好みによって書き変えていく。そんな態度を一切かなぐり捨てて望まなくてはならないだろう。それに叶うだけの資格を、今の政治家が持ち合わせているだろうか?、自己問答せい自己問答!。 ← 個人を人と書き換えるだけでも日本人の個の文化をなにも知らない輩たち、日本人にはそぐわないなどとそんなトボけた節があるだろうか、鈴木大拙も西田幾太郎もろくに読めない愚政治家が。満身創痍の怒りがわたしにはある。『憲法とは歴史、精神史、宗教、慣習、神、人間、万象、無象の、よりどころとなる土台が条文の背後にしっかり根付いていること、それなくしてあり得ない。今の憲法は欧米の体裁を借り、もはや死んでいる。明治維新から倣いなさい。再建するのは並大抵のことではないぞ。気概をもって乗り越えなさい。』ヤバいな、そんな言葉にだけ真に受けて、なんとなく今の憲法を改正したい、したいと先走りまったく『ひでぇ』ものに塗り替えられそう。直ちに自分のやるべきこと 
(1)あらゆる万巻書物を読み識量を蓄えつつ、思考の発散・収束の働きを書き、すなわち読書のこと。そこから倫理に導く洞察を施すこと (2)ただなんとなく改憲したいというズボラな主張内容は、すぐにオカシイと勘繰ることができるから、速やかに是非を問いオカシイ箇所を指摘すること。
(例)→日本の自虐性という意味合いを用い、現行憲法もまた、脱却しようという機運であろうが、自虐も誇示も誇りも、憲法の属性とはまったく関係のない理屈だから、辞めたほうがよい。一時の私情に惑わされ、惑わす方便にすぎない。私たち心の深くにある、否定⇒肯定(否定が肯定を担保できる、否定は肯定の十分条件である、そういう知恵と能力を持っている)個人、気質、精神、文化、社会、宗教、自他の関わり、あらゆるなかに、日本人の慣習に生きていることに気づくべきだろう。謙遜や鬱屈とした面、という行き止まりに決して陥ることなく、否定をもって、肯定的に社会の中から、新たな某を化生させる能力があるということを忘れてはならない。自国の国民が、自分たちのことを敗戦で卑屈だ?、などという理解ではあまりに浅ましいのだが。もっと高い次元から、あるいは深い洞察を持てば、そうはならないだろうが。なんと言葉で上手く説明したらよいかわからないが、共感、同情というもののほうが強くまたごく自然と生まれてくるそうした気持ちをよくみると、そうしたものが広く深く内在する気質であろう。道徳教育を推進する安倍総理(や文科省は)是非とも河合隼雄先生に聞いたらよかろう。少なくとも自虐などという態度よりむしろその本質は逆である。このような、改憲論者のお決まりのもんもんや語りの性格をサンプルとして集める、おおよそ思考停止人間たちの丸投げフレーズはたくさん読むが、おおよそどこかのコピーである。なぜなら発言内容をよくよく考えて伝える人は、外側のめをもち校正し自己批判できる者なのだが、ネット厨は自分の主張に間違いや不正に気づかないか(そうした態度が部分的にあったとしても、自分とは性に合わなければアゲツライ憤慨し、多数のお仲間と口を合わせれば自己慰安しているまでである。仲間ならより一層、内部問題を表に出し解決し良くしていく、という努力目的がいるが、ないならば、ただただ不毛の情報が無駄に浪費されるばかりである。
≫戦争とは何か?≫合法的に認められる集団殺戮≫ そう辞書に載っているかどうかわからないが戦争とはそういうものだ、と私は理解する。敵も味方もなくなり、理性を失い、最終的には個々の生命を故意に貶め、殺るか殺られるかという状況、世界を、合法的に現実的に可能にする装置。憲法改正戦争放棄を抹消し、戦争法(戦時国際法)に沿う中身を今後、改正、解釈改憲集団的自衛権のなかに、盛り込ませようとしていくにちがいない、私はそう直感する。その観点から識者もきっと明瞭に論じているはず。自らは戦地にたつことなく、まるでゲーム観戦をするような人々がその次元で、国家云々を語り、戦争を美化する人たちがいる。自衛官が生きて帰れば勲章を与え名誉に湧き、生きて帰らぬのならば英霊としてまつり上げ、弔いの花束を捧げる。今、私たちは戦争時を実際に体験せずにいる、エアコンバットや三國志のパソゲー画面と並べ、特攻隊プロパガンダ映画や銃戦ごっこなど戦争の子どもじみた幼稚さで、好みから抜け出せず、その延長先で語られるなら、こうした流れに湧きたつのだろう。戦争支持者たちには、ほとんどそれに近いものがみられる。“好みの世界観”を、現実の政治社会に反映されている今のネット社会現象が勃興し、これからの日本の先行きに非常に危うい要因となっていることを感じる。日本人はどうも個々の価値観やポリシーがしっかりしていないものだから、社会の環境変化や政治的流動に合うように、自分の価値観さへも変えてしまう、非常に移ろいやすい人種なのだと感じてしまう。(権)力を持つ強い者にはそれはたいへん都合がよい。周りの情勢に合わせれば守られる、まるでジャイアンスネ夫だ。安倍の保守コメンテーターや大国に引っ張られる政治家も官僚もみな、そうしたなかで生きているのだろう、彼らのコメントを読むといつも、そのようなことを感じる。恐らく自分にもそうした気質や弱さは持っているにちがいないが。話しが逸れた。憲法にはない戦時国際法がこれから集団的自衛権解釈改憲憲法改正論議に必ず持ち込まれることだろう。多数の保守政党は、戦争の出来ない国なんてオカシイ、という考え方。そのポピュリズムを抑え込むには、戦争とは何か?、戦争という集団殺戮がどうして正統化されるのかを、きちんと考え、先方に伝えていくことからはじめたい。
何度も紹介しているが加藤周一のこの短いレクチャは今まさにこうした現状であると、私には思う。隣国に対する感情的憎悪を扇り立たせ、国民の人権は少しずつ落とされている。http://m.youtube.com/watch?v=45Omx8sDP2c&desktop_uri=%2Fwatch%3Fv%3D45Omx8sDP2c
≫講演会全記録 http://www.youtube.com/watch?v=XZef2dIIndk&list=PL85E055D5106665C2

≫言論や情報統制も事前に可能となった今、次は戦時国際法に則る方法をより現実化するために模索していくことであろう。
≫戦争は国家主権の国益のために、国家を構成する人民は、それに奉仕する義務がある。≫という徴兵制は、戦時国際法Wikipediaではあからさまに明文されていないが、戦争法の過去の歴史的経緯をみれば行き着く先はそこにあると聞く。詳しい資料が見つかり次第紹介したい。有事となれば、恐らく石破氏ならそのへんにはお詳しいはず。そうした流れをどうしても食い止めるには、こちらもまた、その中身をよく読み、批判(検討し正す)ことのできる能力が必要である。
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/3525 ←について、あるたいへん的を得たコメント添えます《「押し付け」を60年も黙認するほど、日本人は愚鈍ではありますまい。天皇制維持が、旧体制維持となると考えた「保守派」が愚鈍であったという事でしょう。昭和天皇は、戦前の「愚」を繰り返さぬよう思慮を巡らされたのでしょう。それが平成天皇に引き継がれている訳です。「保守派」には思いもよらぬことで在ったのでしょう。しかし、彼らの「天皇制悪用」の意図は不変であり、今後も警戒を要します。》 
 



わたしは原爆にあった人ですし、戦前戦後両方の時代を知っています。戦時中の一番の問題は軍人たちに国を預けてしまったこと。平たく言えば会社の用心棒あくまでガードマンをいきなり社長や会長に。なにもノウハウがないのですからうまくいくわけがありません。それなのに日本会社は用心棒たちに経営をまかせてしまった。
新しい憲法ができて、とにかくよかったのは「戦争を放棄します」ということでした。本当に跳びあがるほど嬉くてもう逃げ惑う必要がないんだと。 9条を改悪する必要なんてありません。今の政治家は戦時中の軍人と同じです。そういう連中が憲法改正と言って、また日本を戦争にひきずりこもうとしている。彼らこそ非国民です。 日本が戦争にひきずりこまれることなくこられたのは、憲法に守られてきたからです。正義の戦争なんてありゃせんのですよ。 最近、「次は徴兵制度でしょ」と、私は言うんです。いいじゃありませんか、自分の夫が、ボーイフレンドが、わが子が、孫が、家に帰ったら赤紙一枚で出征させられて、それは死を約束されているわけです。また戦時中と同じように、日本中が老人と女子供だけになればいいんです。自分の恋人を殺して、子供を殺して、孫を殺して、さぞかし満足でしょうよ。みんな、全部他人のことだと思っているから平気でいられるのです。私がどれだけ悲劇を見てきたか―。 汽車のデッキに立って出征しようとしている兵隊さんを「死ぬなよー、としがみついて見送る母親が、憲兵に引きずり倒され、ぶん殴られて、鉄の柱に頭をぶつけて血を流している。それを死地に赴くために出征しながら見ている子供の気持ち、どんなだったろうかと思います。 戦時中は、そんなことばかりでした。またそれが始まろうとしているのです。みんな戦争の正体をしらなさすぎます。戦争って言葉をなくせばいいんですよ。「大量殺人」でいいんです。」 明治時代、たくさんの人が憲法の草案を出してるんです。なんで今の自民党の人たちが、(今の憲法を)「アメリカから押しつけられたもの」と言うのか甚だモノ知らずで無礼なんですよ。日本人が作ったんです。


▼西村玄考 
現行憲法は日本国民にとってまったく押し付けではない。大多数が当時支持していた。GHQによって、当時から今に続く、保守政党の日本の政府にとっては、押し付けられたにちがいない。安倍が、選挙ポスターに掲げる、『〆〆を取り戻す』。という真意は、国民主権から今一度、国家主権を取り返すことに思えてならない。そんな彼らの目論見や次元の低さでは憲法と私たち未来はない。

・非戦国として日本の現憲法をいかに再出発させるか 
・今の憲法から来るべき民主主義にどう向けていくか 
この二つを念頭に置き自分も積み上げていくつもりだ