国家 主権者 国 人民 市民 臣民 の名辞を ルソーはどう定義づけていたか
p31
 一つの精神的で集合的な団体は 集会における投票者と同数の構成員からなる。それは、この同じ行為から、その統一、その共同の自我、その生命および意志を受けとる。このように、すべての人々の結合によって形成される公的な人格は、かつての都市国家という名をもっていたが、いまでは共和国または政治体という名前を持っている。それは受動的には構成員から【国家】とよばれ、能動的には【主権者】、(これを)同種のものとするときは【国】とよばれる。構成員についていえば、集合的には【人民】だが 個々には、主権に参加するものとしては【市民】、国家に服従するものとしては【臣民】と呼ばれる しばし混同され他方に誤用されるものだが、これら用語が正確に意味が用いられ、区別されることを知っておけば十分である



 ルソーは 自由と民主主義を こう まとめている(と思われる)
p29
 各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて護り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること




主権在民として 彼の書籍から読み拾う 民主主義を護ることの憲法の意志を 彼の書籍から読み拾う

p88
 国家と政府、この二つの団体には本質的な違いがある。つまり、国家は自分自身で存在するのに、政府は主権者がなければ存在しない。だから統治者の支配的な意思は、一般意志、あるいは法にほかならず、またそうでなければならない。統治者の力は、統治者に集中された公共の力に過ぎない。政府がみずから 何らかの専制的な 勝手な行為をしようとするやいなや、全体の結合が緩み始める。ついに統治者が主権者の意志よりも、もっと積極的な個別意志をもち、そして個別意志を服従するために、その手中にある公共の力を利用し、その結果、いわば法律上と、事実上の二つの主権者があることになれば政治体は解体する。

p83
 どんな自由な行為にも、それを生み出すために協力するふたつの原因がある。ひとつは精神的原因(行為をしようと決める意志) もう一つは物理的原因(行為を実行する力) 前者は立法権とよばれ後者は執行権と呼ばれる。このふたつの協力なしには成り立たない。・・・公共にとって このふたつを結集し、一般意志の指導によって動かし、国家と主権者とが連絡につとめ、人間の魂と肉体との結びつきを いわば公人において果たす代理人が必要である。国家において政府が存在し、この政府は不当にも主権者と混同されているが、政府は主権者の公僕にすぎないのだ。

p133
 主権は、譲りわたされるということは決して出来ない、(←p54:個々の自らの生命を、勝手に処分する権利などもたない。なぜなら(...自殺こそが人間にとって最もな罪悪の極みとするものだから) (そうした自己生命を自らで取捨選択できる権利などあろうはずもないのだから) それと同じ理由によって、主権は代表されるということも決してできない。主権はそもそも一般意志のなかに在る。しかも一般意志は決して代表されるものではない。一般意志はそれ自体であるか別のものであるかしかなく その中間はない。 国民の代議士は、だから一般意志の代表者ではないし、代表者たりえない。 彼らは国民の使用人でしかない。彼らはなにひとつ国政の法の取り決めを彼ら本位では決して成しえるものではない。 少なくとも国民みずから承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。イギリス人民が自由だと言ってるが、彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、その自由な短い期間に、彼らが自由をどう使っているかを見れば、自由を失うのも当然である。
 代表者という考えは近世のものである。 (代議員制という政治システムは近世のものである)それは封建政治に、すなわち人間が堕落し、人間と言う名前が恥辱のうちにあった、かの不正でバカげた政治に由来している

 括弧内は筆者