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イメージにおける主語性と述語性
村 林 真 夢
1.はじめに
心理臨床の分野において,イメージは重要な役割を持っている。狭義のイメージ療法を行う場
合でなくとも,心理療法を行う中で,夢や絵画,箱庭といったイメージを扱うことは稀ではない。
さらに言えば,クライエントの語る内容自体をイメージとして聴いていく場合もあるだろう。い
ずれにせよ,心理療法においては,イメージを通してその人の内的世界を理解しようとしたり,
表現されることをイメージとしてとらえていく場合が少なくない。
それらのさまざまなイメージの中でも,夢は「人間の心の奥から生じてくるイメージ」(河合,
2000)である。よく知られているように,Freudが夢を歪曲された無意識の願望ととらえたのに
対し,Ju喝は夢は隠しごとをしないと考え,夢をよく分からない原語で善かれたテキストのよう
に扱って,拡充(amplification)という方法でその意味を明らかにしようとした(Jung,1953)。
拡充というのは「最初のイメージに注意を集中し,それに対する思いつきをあらゆる側面から集
める」というものであり,意識的豊富化と言い換えられる(Jung,1987)。Freudの用いた自由連
想が,夢に出てきたⅩについての連想,さらにその連想されたものについての連想,と「夢のイ
メージからいわばジグザグ状に遠ざかって」いくものであるのに対し,Jungの用いた拡充法は
「最初の表象Ⅹにとどま」り(Jung,1987),夢イメージに忠実に添うことを強調する。本論は,そ
のようにイメージに添うための一視点として「主語」「述語」という見方を導入し,夢を題材と
して,それらの視点からイメージをとらえていこうとするひとつの試みである。
2.拡充(amp[ification)について
Jungの用いた拡充という方法は,あるものを徹底的に描写しようとする試みと言える。夢見手
への質問は「Ⅹについて何か思いつきますか?それについてどう考えますか?他にⅩについて何
を思いつきますか?」というようになされ,夢のすべての要素についてこれが行われる。その際,
夢見手への質問による個人的拡充でとらえきれない普遍的(集合的)イメージを理解するために,
神話や伝説の知識が援用される点も非常に特徴的であると言えよう。Jungは言う。「たとえば夢
に兎が出てきた場合,兎だけを見ればよいのではない。畑にいるところを見,毛皮の色が地面に
あってるかどうかに注目しなければならない。それには猟師や犬や,畑の穀物や花がつきもので
あることを感じ取らねばならない。そうしてようやく,兎が何であるかが分かる」。そして,た
とえば誰かが自転車の夢を見たとすると,「もし私が自転車を見たことがないとしたら,あなた
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村林:イメージにおける主語性と述語性
はそれをどう説明しますか?」と尋ねる(Jung,1987)のである。
そこでは,兎の様子(毛の色はどんなふうなのか,どんな状況に置かれているのか…),周り
にあるものの様子(犬はどんな動きをしていたのか,花はどんな色をしていたのか…)が徹底的
に描き出されようとする。自転車を見たことのない人に自転車を説明しようとすれば,その形状,
用途,どんなものに似ているかなど,あらゆることを駆使して自転車というものを描き出さなけ
ればならない。この,どんな色や形をしているのか,どんな動きをしているのか,どんな状況に
置かれているのかについての描写は,そのイメージについての述語的表現と言えるのではないだ
ろうか。これと関連して,Jung派の元型的心理学の中心であるHillman(1981)は「イメージそ
のものに戻る道筋をたどるには,そのイメージのさまざまな質に気づくための,形容詞や副詞と
いった言葉が必要である」と述べている。Hi11man(1981)は,物事の二次的な性質とされてき
た色や手触りや味わいといったものを再認識することによって,その物事の価値が認識できるの
だということを強調している。
3.主語的であること・述語的であること
ところで,主語的,述語的という言い方は,主に哲学や論理学の分野で用いられてきた言い方
である。ここではそれらの論のいくつかを取り上げて,主語的,述語的という言い方で指されて
いる事態を明らかにしていきたいと思う。はじめに取り上げるのは,木村敏の「もの」と「こと」
についての論である*1。これは主語的,述語的ということと完全に重なり合うとは言えないが,
密接に関わると思われる概念であるため,まずはそれについての概観を行うことにしたい。
3−1.「もの」と「こと」
木村(1982)によれば,われわれの生きる空間は「もの」によって満たされており,それは外
部空間のみならず,内部空間,すなわちわれわれの意識についても言える。たとえば,「速い」
ということはそのままの姿では決して「もの」ではないが,これを「速さ」という形で思い浮か
べてみると,それはたちまち「もの」に変わる。存在論における「あるとはどういうことか」と
いう問題を,「存在とは何であるか」という形で問題にすると,「あるということ」はたちまち
「もの」となる。あるということは,「何であるか」という問いの対象にされるやいなやそれ自身
であることをやめてしまい,名指されることによって固定されるのである。
一方「こと」は,客観的・対象的な「もの」として現れるのではないような,別種の世界の現
れ方である。たとえば,私たちが「自己」とか「自分」とかの名で呼んでいるものは,実は「も
の」ではなくて「自分であること」「私であること」といった「こと」である。さまざまな場面
で立ち現れてくるこのような「こと」は,きわめて不安定な性格を帯びている。「こと」には色
も形も大きさもないし,第一,場所を指定してやることができない。私たちの意識はこの種の不
安定さを好まないため,「こと」の現れに出会うやいなや,たちまちそこから距離を取って見る
ことにより,それを「もの」に変えてしまおうとする。また,元来われわれの意識は「もの」を
見出すためにあるので,意識によって見出されうるかぎり,どのような「こと」でもすべて「も
の」的な姿を帯びることになる。たとえば「こと」はことばによって表現されるが,ことばにさ
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京都大学大学院教育学研究科紀要 第51号
れた「こと」は,すでに純粋な「こと」ではないと言える。
では,「もの」と「こと」は二者択一的な現れ方をするのだろうか。そうではないと木村は言
う。「もの」と「こと」との間に共生関係が認められる場合として,木村は俳句や詩などの言語
芸術を挙げる。たとえば「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句は,形の上ではいくつかの「も
の」についての描写でしかない。しかし,もちろんこれは「もの」の報告文ではなく,芭蕉の身
辺にただよった何らかの「こと」を,ことばにして言い表そうとして詠まれたのである。古池,
蛙,水の音といった「もの」のイメージや,これだけのことばを並べたときに音声学的な特徴が
作り上げるイメージ,そういった「もの」的なイメージの綜合が,その背後の純粋な「こと」の
世界を感じ取らせてくれるのである。絵画や音楽についても同様のことが言え,さらには人間の
表現行為すべてが「もの」に即して「こと」を感じ取るという構造をもっている。「こと」は
「もの」に現れ出ており,「こと」は「もの」との共生関係においてのみ,現実の世界に存在する
ことができるのである。
以上が木村の「もの」と「こと」についての概観である。ここに書かれたことと,主語的,述
語的であることとの関わりを考えたとき,「もの」は主語,「こと」は述語と相応的に関係する部
分もあるように思えるが,今度は主語的あるいは述語的ということについて,中村雄二郎と市川
浩の論から考えてみたい。
3−2.「主語的論理・主語的統合」と「述語的論理・述語的統合」
中村(1989)によると,述語的論理とは述語の同一性に基づいた論理である。それはたとえば
「私は処女です。聖母マリアは処女です。ゆえに私は聖母マリアです」といった形で表される*2。
正規の三段論法,たとえば「すべての処女は聖母マリアを憧れる。彼女は処女である。彼女は聖
母マリアを憧れる」という推論は,大前提の主語(=「すべての処女」)のうちに小前提の主語
(=「彼女」)が包摂される,すなわち主語の同一に基づいた主語的論理であるが,それに村して
述語的論理は,大前提の述語(=処女)と小前提の述語(=処女)の同一性に基づいて結論が引
き出される。つまり,この述語的論理においては,共通の述語あるいは要素をもっていればAと
非A(=B)が同じものとされ,それゆえ事物が,たとえば統合失調症患者の絵にしばしば見られ
るような,半分が男で半分が女であるAとBの折衷像として見られることも生じるのである。
また中村(1979)は,アリストテレス以来の共通感覚という考え方を論じる著作の中で,主語
的統合・述語的統合という言葉を用いてわれわれの知覚や五感のあり方を説明している。それに
よると,諸感覚(いわゆる五感)は,皮膚感覚や運動感覚を含む,広い意味での触覚である体性
感覚によって統合されており,それによって私たちは他の人間や自然と共感したり一体化したり
することが可能になる。体性感覚による統合は,視覚,聴覚,喚覚,味覚といった特殊感覚の形
でひとたび全身に拡散し,その拡散を通した上で行われる遠心的,基体的統合である。それは主
語的な統合ではなくて述語的な統合である,と中村は言う。他方で,諸感覚の主語的な統合とい
うものもある。それはたとえば,視覚型の人とか聴覚型の人という言い方に表れているように,
知覚が特定の特殊感覚を中心として働いている場合である。この主語的統合は,述語的統合の基
礎の上に初めて成り立つのであるが,ただ,主語的統合はひとたび成り立つと述語的統合を拘束
する働きをもっている。前者は後者を潜在的な基盤として現れる一方,後者は前者によって導か
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れ,方向づけられる。たとえば,よく知られた逆転眼鏡の実験において,被験者は初め視野が逆
転して自分の身体は正立して見えるが,徐々に適応して視野が正立像として見えるようになり,
視覚と他の感覚とが一放する。このことを主語的統合,述語的統合の観点からとらえると次のよ
うになる。初め,主語的統合である〈視覚的統合〉は解体し,述語的統合である〈体性感覚的統
合〉が顕在化して基準となる。そのために視野の方が逆さまになって見え,自分の身体の方は正
立して感じられる。ついで今度はその〈体性感覚的統合〉の基礎の上に〈視覚的統合〉が再組織
されて基準となり,〈体性感覚的統合〉を規制するようになる。今度は逆転した視野の方に身体
が合わせられ,視覚と他の感覚が一致するようになるということである。すなわち,視覚的統
合=主語的統合は,体性感覚的統合=述語的統合の上に成り立つが,潜在的でとらえにくい述語
的性格をもつ後者は,容易に前者の統合によってとらえかえされることになる。
以上が,中村(1979,1989)による主語的,述語的という考え方の概観である。やや駆け足な
概観であるので,抽象的で分かりにくい点もあるかもしれないが,「述語的論理においては事物
がしばしばAとBの折衷像として見られる」というくだりは,夢などのイメージとの密接な関わ
りを感じさせる。また,「主語的統合は述語的統合を潜在的な基盤として現れる一方,後者は前
者によって導かれ,方向づけら