http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/620049/523121/83877862


憲法とは何か 長谷部恭男著、読書中いずれ記事に。
参考
http://mblog.excite.co.jp/user/critic20/entry/detail/?id=24930021&_s=5817dcd40d35ce6a69d5d9194f005af3

長谷部恭男の岩波新書憲法とは何か[外部リンク]』の冒頭にこう書いてある。「本書は、憲法立憲主義にもとづくものであることを常に意識し続けなければならないという立場をとっています。(略)この世には、人の生き方や世界の意味について、根底的に異なる価値観を抱いている人々がいることを認め、そして、それにもかかわらず、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う基本的な枠組みを構築することで、個人の自由な生き方と、社会全体の利益に向けた理性的な審議と決定のプロセスとを表現することを目指す立場です。(略)なぜ、立憲主義にこだわることが必要かといえば、根底的に異なる価値観が裸のままでぶつかり合ったとき、平和な社会生活や国際関係はきわめて困難となるからです」(P.・)。この立憲主義のイントロの説明は、今年の6月以降、長谷部恭男だけでなく小林節によっても会見や集会の場で諄々と語られてきた。いろんな考え方を持った人が世の中に生きていて、そして皆が不完全であるから、それぞれが認められ、人として権利を全うできるようにするのが立憲主義なのだと、小林節がその意義と要諦を噛んで含めて説いていた。説得力のある言葉として耳に入ったことを覚えている。今、しばき隊の「はすみリスト」の事件を前にしたとき、われわれが思い出すべきは、この立憲主義の原理と精神だろう。
今年の最大のキーワードは「立憲主義」だった。結論から言って、しばき隊の思想と行動は立憲主義とは相容れないもので、根本から矛盾し対立するものだ。立憲主義が否定し超克しようとする地平に、しばき隊の狭隘なイデオロギーと正義がある。そう言えるだろう。しばき隊は、常に自分たちを絶対的な正義とし、自らと対立する勢力や批判する者を公共敵と断定し、ある者はレイシストと、ある者はネトウヨと、ある者はヘサヨと呼び、それらを暴力的に殲滅することを扇動し実践してきた。今回の「はすみリスト」の件が典型的だが、彼らの思考と論法によれば、はすみとしこのFBに積極反応して「いいね」クリックをした者は、社会的に許されないレイシストであり、制裁を受けて当然の屑で、個人情報晒しの処刑を受けるのが当然だという規定になる。そうした認識と前提の下で、「闇のあざらし」を名乗る男がFBから個人情報を抽出してリストを作成し、挑発と威嚇の言動とともにそれを公開して宣伝する凶行に出た。公開された被害者たちは確かに右翼が多かったことは間違いないが、いわゆる草の根右翼の範疇であって、政治家でも官僚でも弁護士でも大学教授でも新聞記者でもなく、特権身分の者ではない。個人情報晒しの制裁行為が、この対象なら多少とも許されると世間的に通念される権力者や芸能人ではなく、憲法で権利が保護される一般市民だ。

事件が起きて一週間以上経ったが、しばき隊は相変わらず自分たちの行為を肯定したままでいる。ネットに公開された個人情報は晒しても問題ないと開き直っていて、レイシズムの可視化だと堂々と正当化を続けている。レイシズムに対抗して打倒するには、こうした果敢な行動こそが適切で効果的だという自らの大義の宣揚に余念がなく、しばき隊内部の結束と団結を強めている。その一方で、問題の「はすみリスト」は公開を取り下げたまま、騒動が表面化して以降は非公開となった。本来、そこまで自らの正義を言い、今回のプロジェクトの正当性と合法性に絶対的な自信があるのなら、「はすみリスト」を再公開して正面から世に問う行動に出ればいいのだが、彼らはそれをせず、現実には右翼を相手に敗北し撤退した惨めな状況となっている。「はすみしばきプロジェクト」は挫折した。客観的に見て、明らかに当該プロジェクトは無差別な政治暴力の行使であり、彼らがレイシストと決めつけた一般市民への人権侵害行為に他ならない。それが人権侵害でないと言うのなら、久保田某や石野雅之がこの一週間に受けた被害も人権侵害ではなく、右翼による怒濤の個人情報晒しの暴力も合法で正当だということになる。石野雅之は、リストの個々に脅迫文書まで送りつける手口[外部リンク]を示唆していて、こうした卑劣な人権侵害が、彼ら自身に逆にはね返ったのが今回の事件の顛末だった。

11/6は、事件が発生して4日目で、右翼による猛烈な逆襲でしばき隊2名が炎上していた時期だが、そのとき、神原元が「はすみしばきプロジェクト」を支持するツイート[外部リンク]を発し、タグ付けして賛同を呼びかける行動に出た。弁護士の神原元がプロジェクトの支持を表明したため、瞬く間に多くの賛同者が集まる推移[外部リンク]となる。神原元はずっとしばき隊と行動を共にしている顧問弁護士だ。同じ11/6には、「断固として法的措置をとる」と断言[外部リンク]、2名のしばき隊員に「ネット私刑」を加えた2ch右翼に対する報復も宣告した。しばき隊があくまで自分たちの行動を正当化[外部リンク]し、先に手を出した非を認めようとしないのは、そして、自分たちの「ネット私刑」は正義の行動だと言い、右翼の「ネット私刑」は悪質な犯罪だと開き直るのは、こうした弁護士神原元の後ろ盾があるからである。そして、現在、この「はすみリスト」事件をめぐるネットの関心は、次第に同じ弁護士である高島章と神原元の間での対決へと焦点が移りつつある。11/9に、高島章から衝撃の暴露[外部リンク]があり、神原元が出版社青林堂から懲戒請求を受け、10月27日に綱紀委員会を経て懲罰委員会に付議されたという報告が出た。懲罰請求の理由は、神原元による「数々の誹謗中傷」だと言う。この事実は重大で、今回の「はすみリスト事件」の今後の展開にも影響を与えることだろう。神原元が右翼出版社である青林堂から所属する横浜弁護士会懲戒請求されたという情報は、ネット右翼の間で噂として回覧されていた。

今年2月に懲戒請求があったという話で、真偽不明だったが、高島章が事件番号の証拠まで付して公表したため、それが事実であることが確定した。しかも、2月の請求を受けてから延々半年以上も審査して、付議の結論を綱紀委が出したということは重大で、おそらく、素人のわれわれ以上に全国の弁護士会を驚愕させたニュースだろう。高島章も言っているとおり、通常、こんな請求は門前払いで却下されてしまう。青林堂は極右出版社であり、実際にトラブルの相手となったのも札付きの極右の人物だ。つまり、簡単に言えば極右からの難癖、言いがかりの懲戒請求であり、懲戒請求の制度を悪用した政治目的の嫌がらせに他ならない。懲戒制度の存在が橋下徹によって宣伝され、世間に周知されて以降、おそらくこうした不埒な悪用例は枚挙にいとまがないはずだ。綱紀委も懲戒委も、審査をするのは弁護士である。その綱紀委員会で、請求を即座に却下することなく、時間をかけて審査に及んだ上で「付議」の決定を出したということは、審査した弁護士たちの客観的な検証でも、神原元の「誹謗中傷」が相当に激越であり、相手が極右だから門前払いで処理しようという収拾策が簡単にとれなかったことを意味する。弁護士法と弁護士倫理に照らして、少なからず問題ありという判断となったということだ。この事実とその公開は、神原元の面目を失わせる羞恥の事態だったに違いない。

たとえ最終的に「懲戒」の決定がされなくても、「付議」だけでもペナルティの効果は十分にある。綱紀委の判断が示しているのは、横浜弁護士会から見て、神原元の行動が過激な「正義の暴走」だと評価がされたということである。弁護士に本来求められる理性と良識を逸脱した、看過できない偏向と独善が認められると、そういういう審決が(一次的に)下されたということだ。この件を問題なしとして放免することが、弁護士会全体の今後に悪影響をもたらすと、そう熟考された上での判定である。おそらく、懲戒委でシロの処分になっても、「付議」の実績はイエローカードの警告として残り、次はレッドカードですよという執行猶予的な意味の縛りになるに違いない。今回の「はすみしばきプロジェクト」の行動を、正義の義挙だとして認める者はこの国に少数だろう。レイシストにも人権がある。ネトウヨにも人権がある。憲法によって守られている。それを認めず、私的暴力の集団制裁(=ネット私刑)を正義の原理主義で容認してしまったら、わが国は立憲主義の国ではなくなり、憲法は紙切れになってしまう。弁護士は憲法を守らなくてはならず、どれほど政治的に対立する相手であっても、その者の人権を守る立場にある。他の者ならいざ知らず、弁護士がそうした一方的な正義論に与し、卑劣な政治暴力を合理化することは許されないことだ。長谷部恭男が書いているとおり、多様な価値観を認め合おうという考え方が、90年代以降のこの国のコンセンサスだった。

神原元としばき隊の政治行動と正義論は、そのコンセンサスを破壊しようとするものである。しばき隊は、相手と対話しようとしない。議論で説得しようとせず、相手から合意や納得を得ようとしない。挑発と喧嘩だけだ。自己の正義を振りかざし、敵対者を頭から無価値なゴミクズと決めつけ、暴力を振りかざして排除しようとするだけで、支配し服従させようとするだけだ。長谷部恭男の岩波新書憲法とは何か』の冒頭には、ニーチェの次の言葉が扉に掲げられている。「怪物と戦う者は、そのため自身が怪物とならぬよう気をつけるべきである」。神原元に自戒を促したい。