歎異抄 十三

 ――――――――――
【写真】
 歎異抄講話/暁鳥 敏
 ――――――――――

  歎異抄 第十三部 抜粋
(原文に忠実でない)


親鸞聖人曰く、
唯円房、御前はわたしがいうことを信じるか」
唯円答えて曰く、
「はい信じます」
聖人曰く、
「ならば、わたしのいうことに背かぬのだな」
唯円曰く、
「はいさようにございます」
聖人曰く、
「ならば、たずねるが、人を千人殺しなさい、されば必ずや極楽に往生できる」
唯円曰く、
「仰せではございますが、わたしの器量では千人どころか一人も殺すことができようとも思いませぬ」
聖人曰く、
「ならば、親鸞がいうことを背くのか、御前は先ほど背かぬといったではないか。これで思い知らねばならぬ。何事も自分の心のままにできるならば、往生のために千人殺せというたら、御前はわたしがいうことだから、必ず殺すであろう。ところが、御前には一人も殺す業報の約束がないから、いくらわたしのいうことだから背かぬと思うても殺すことができないのである。これはいかに御前のこころが善いからというのではなく、殺す約束がないからである。これに反して殺すまいと思うても、因縁約束ならば、百人千人を殺すこともあるであろう」

(参)当原文及び訳 http://www.gem.hi-ho.ne.jp/sogenji/tanni/tanni-13.htm


【暁鳥敏氏】抄の第十三についての講話本のなかで端的にこうまとめている。

私どもは善が往生のためだといわれてもつとまらぬように、悪が往生のためだと仰せられてもつとまらぬのである。これ善悪二業はともに現在の自己の意志のみにては、いかんともすることができないということを極端に言いあらわしたものである。


【私心】浄土真宗の一番読まれている聖典歎異抄のなかでも十三節のこの文面は有名ときく。裟婆に生きる凡人のわたしなんかが、どんな付加や下手な解釈も到底できないことは承知で。おこがましい限りなのだが。

その、今わたしがたいへんに悩むところの、所謂、戦争という為しごと。その人間の業について、この法然上人のこの文から何か大事な点を示しているものと思っている。
また、我々の持つ現憲法をもこの文面に照らし教えられ考えさせられるのである。情勢に凭れた時々の状況(事大主義)では決して曲げることのできない事がある。そして、(政治)のなかだけではおさめることのできない事柄があると思う。(しかも今、政治とよべるのか?、ほとんど堕落した状況ではないのか?、疑問視しているわたしには、なおさらである。)
今日本が直面しているこの二つの問題、そして我々人間がそこに関わる大事な意味合いについて、歎異抄のこの文から、ものすごい大切なことを感じ、考えさせられるのである。