フランス国内で起きたテロとデモについて、今、思うこと。

――― フランス国内で起きたテロとデモについて 今自分が思うこと(1)

集団のマツリゴトで生み出される思考及び感情、それがもし、あぶない、と思うとき、わたし個人の「外側から」疑ってかかるべき、と感じる。

それでもしかし、自分が孤独に思考し様々の感情を抱きつつ、それでももし、ある選択をとる場合には、決してあぶない領域ではしないでおく。

あぶないとは、ネット二次情報を自己の身体で察知し、メディアではない「わたしの体から」目、耳、口、が開き発し、取り込み、その後の思考及び感情、そこから膨らんだ、幻想、妄想、といった頭のなかの、

喧騒のマツリゴトから生み出される、ただひとつのセンテンスや ただひとつのロゴスや ただひとつの言葉でさへも、全体主義にもなりえるのだから。

たとえそれが自分ひとり熟思した結果の判断、、と確信したとしても、あぶないもの、と察知できることは、わたし個人の「外側から」疑ってかかるべき、と感じる。

共同の生み出す思想や思考や感情が、どれだけあぶないか否かの分別は、
どれだけそれが、「自己目的化されているか?、自己完結されてしまっているか?、否か?」
の判断なのだと思う。

大集団が、しかも短期的に、喧騒から生みだす、「わたしたちは…、」
たとえ! わたしが「暴力反対…、」という言葉であっても、
たとえ! わたしたちが「人間は理性を持ち合わせているのだから、最良の判断ができるはず…、」なのだとしても、、

決してすぐに断定しないでおきたい、、

しばらく寝かせておく必要がある。孤独に思考する余地が要る。

集団も、個人も、恐怖・力に囲まれたなら、、わたしだって平気で人を殺してしまえる。

そうした狂気がいつも集団には潜んでいる、 と思う。




―――フランスで起きたテロとデモについて 今自分が思うこと(2)


しばらくこの一件について警戒している。あらゆることを考えている。記事を読むたびに、悪い自分の頭フル回転している。テロリスト、という言葉は、当時ナチズムもユダヤ人に対し名指した。(N・チョムスキー著、「アメリカに報復する資格はない!」にあったが、表向き、政治家発言は、簡単に、そう流れていく。そうしたい人間が政治家の取り巻きに山ほどいるだろうから、言わされているのだろう。

どこかで戦争が起きるとき、これからもし、どこかで起こそうとしたがる顔の見えない人間らは、国益だとか大義名分だとかの手段なのではないです。『それ自体(事態)を目的に』すすめていくんだと思いますね。
彼らにとってそれが一番手っ取り早いから。

仕事で教えられた格言を思い出します。軍隊の兵法、
軍隊がすぐにとれる陣地をとらずにいては負け戦に喫する。という経験から出てきた、

経営者、事業者に限らず、政治家、官僚、戦争目的の戦争屋にとっても、こんな格言がいつも頭にあるのだろうと思います。

「引用

中国の兵法書孫子、「拙速(せっそく)は巧遅(こうち)に勝る」

拙速とは、つたなくても速く、巧遅とはたくみでも遅いことです。つまり、完璧でなくとも「仕事が早い」にこしたことはない。私の経験でも、巧遅(こうち)>拙速(せっそく)の構図でうまくいったためしがほとんどありません。
ところが、完璧さを追求するあまり、いつも期限がぎりぎりになる人を見かけます。完璧さを心掛けること自体は、とても素晴らしい考え方です。ただし、時間がかかりすぎて 機を逃しては元も子もありません。」

日本の今の政治手法もこんなふうにやってますね。まるわかりです。

話しがまた変なふうに、元に戻るけど、NHKでやってる大河ドラマ吉田松陰だって、見方を変えたらテロリストでしたもの。多くの人々の血を流さず近代日本を築いたです、当然そんなふうに描かないでしょうけどね。

テロやテロリストなんていうのは、どっちからみたらどっち?、っていう相対用語にすぎないですね。

そんな用語に私たちはなびかないようにしたいものですね。

ISHIさん

パリの雑誌の風刺具合は、腰が座っていると思います、つまり体を張って描いている。エライ・・

GENKOU
コメントありがとうございました。この出来事を新聞やネットなどの二次情報で多数の記事を見聞し、……つい先日に音楽をしている友人と、ジョン・レノンのイマジンとなんか似てるよな。と話しながら。 ジョン・レノンがあの歌を世に出したとき、たぶん命がけであったろうな、覚悟していたろうなぁ。『想像してごらん、天国なんてないんだと、想像してごらん、国なんてないんだと、』……… 忌野清志郎さんは、まるで日本の憲法のようだ、と言っていたようですが、 ジョン・レノンは先に憲法の原文に衝撃を受けた、その一端もあってできた、と。(間接でどこでラジオか本か忘れてますし、オノ・ヨーコさんに逢えたら、是非とも尋ねてみたいんですが、無理でしょうね)………すみません政治的な記事ばかりで………こんな歌が、このような詩が世界中を席巻したら、篤い信仰を持って生きている人々は、きっと恐怖と怒りがあったでしょうし。 だから、この一件、わたしにはとてもむつかしいです。 ……… フランス国から生まれた伝統芸術や文学や映画、あちらの情熱的な創造力、たいへん尊敬もします。ニューヨークのように、オルタナティブな雰囲気も今はあるにちがいない。表現に命がけであっても、そうした伝統文化は尊敬します。風刺画もちゃんと見ていない、携帯の小さな画面でチラみして、、、イラストとしての完成度、(出版、編集)というジャンルに長く接してこられたISHIさんは、きっとわかるのですね。その範疇を超えて、自分はもっと根深い問題に考えが及んでしまっています。……… あるFacebook友人から紹介いただいたブログ↓です。、中東やパレスチナを取材し実地で見て聞いて感じ、パリでの出来事について、ご存知かもしれませんが土井敏邦さんのコラム この出来事を考えていくなら 、こうした言論から考えていきたいと、思っています。http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20150109.html 、長くコメントしてしまいました。ありがとうございました。


ISHIさん

この雑誌はパリっ子では有名らしく、何にでもかみつくのだそうです。イスラエルに対しても………それが本当ならば、偉いなあと。ジョン・レノンで云えば、すごいなあと思うのは、この世界は実は狂人たちに支配されているということに目覚めた、そのことを歌おうとしたからではないですか?強欲な富裕層たちと言ってもいいでしょうが。フランスでもアメリカでも、凄いなあと思う点もどんどん無くなって行って、出発点を大事にする少数の人たちは微かにいらっしゃるということではないでしょうか?日本の中で、どうやって武力によらないで望む世界を構築して行くのかという時、風刺を否定するようではお話にならないというのが僕の願い思う事です。

パレスチナで戦争を起こし、罪もない子供達を殺戮する人々を僕は憎みたい。でも、一部の抵抗派勢力に、この表現はけしからん、こいつを殺してしまえ、というのも とても支持できないんですけれどもねえ、その先には憎悪と暴力の修羅場、地獄絵図しか詠めないからです。ペンを掲げる市民は、日本の生きる在り方そのものだと思います。どちらかと言うと、イスラム教にシンパシーを感じる僕ですが、もちろん仏教徒として異教徒に違いありませんが、少なくともキリスト教ユダヤ教よりずっとシンパシーを感じてきた僕には大ショックな事件でした。殺されて行く人々の無念を常に考えたいです。戦争もテロもテロと言ってひどければ抗議としての組織された暴力も、どちらに対しても、変わりはあろうはずもありません。


GENKOU
わたしは、テロリストも風刺画家の被害者も、どちらに立っても、どちらをも決して肯定できません。起きた出来事の結果は、この先、『2つの世界観』を切り分けてしまう出来事のように決して『動いて』はならないし、一触即発させる暴力的緊張をはらませてしまっているように感じますし、、待ってました、と、……2つの世界観で切り分ける状況に持っていこうとする狂人たちもいるでしょう。(イルミナリティもイスラム国も、政治家も、富裕層も、戦争屋も、)今、世界では、そうした者たちが跋扈しているのかもしれません。ジョン・レノンがおっしゃるように………。タイムリーだろうが、宗教の揶揄だろうが、自由思想だろうが、方や、民族の宗教の長い対立だろうが、歴史の人間のたどったある一面であろうが、『悪の拡がり』にはどちらも、いっさい、わたしは否定していく所存です。再度コメントありがとうございました。