倫理から戦争問題をみる


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国際法の、その違反を制裁する権限をもっていなかった国際連邦、カントはそれを盛り込むことを求めていたのです。しかしヘーゲル楽天的啓蒙家と嘲笑したようにそれはただの夢想でしかありませんでした。そうした訴求について彼自身はむしろ悲観的でした。むしろそれが非社交性を通した攻撃性でしか実現されないだろう、という見通しをもっていました。

 自然が人間に与えられている一切の自然的素質を発展せしめるに用いるところの手段は、社会においてこれらのあいだに生じる敵対関係にほかならない、しかしこの敵対関係が、ひっきょうは社会の合法的秩序を設定する原因となるのである。ここに言うところの敵対関係とは、人間の自然的素質としての非社交的社交性のことである。人間は社会を形成しようとするが、しかしこの傾向はまた、絶えず社会を分裂せしめるおそれのある抵抗と至るところでむすびついている。
(「世界公民的見地における一般史の構想」「啓蒙とはなにか」)岩波文庫

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倫理が戦争問題を扱う場合、戦や争いへと向かう人間の道理やからくり。人間固有のもつ法則としてそれを学究している。
そんな印象をもちます。


この文庫からわたしは、パレスチナイスラエルの長い対立、日本が隣国と巧く外交できない(努力しない)政治状況。

今、日本が戦争可能にする体制を制度化している状況。"国内防衛"という名目を少しずつすり替えながら"可能な交戦"を実現できないか模索している状況。

などがこの文章から透けて見えました。


この頃は、倫理や哲学などの文庫を読んでも、頭のいい誰かがこうした識を利用し、現状社会を正当化している人もいるのだ、と思うと、なんだかやりきれない気持ちになります。ですが、

ですが、学問をそうしたなかで利用せず、その究明と解決に求めていくことが今非常に大事なことの気がします。


政治や経済、或いは人間のあらゆる営みは、自然も生命も含め、センソウとはそうしたものすべてを抱え込み利用していきます。時、物、事を、センソウというひとつの方向で進まされ、まとめられるのです。ですから表に出てくることが分かりやすいといえば分かりやすい。僅かな不穏な動きさへも敏感に察知できるのはこのために思います。人間の防衛予知能力が発揮できるのはきっとそのためかもしれません。


『戦争の芽を摘むための不断の努力』(山本美香さん)、この言葉が最近ますます身に染みる。

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