記事の予告&雑感


 ある記事の予告 & 雑記
 

チェルノブイリの現在の事についての報告を、公聴したすべてを、来月にはアップする予定です。

http://f.hatena.ne.jp/mobile/a-rimbaud2patti3genkou437/20130525003800?guid=on

http://f.hatena.ne.jp/mobile/a-rimbaud2patti3genkou437/20130525003700?guid=on

http://f.hatena.ne.jp/mobile/a-rimbaud2patti3genkou437/20130525003826?guid=on

データを包み隠さずね。o


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 スタンリキューブリック監督の「博士の異常な愛情
http://m.youtube.com/watch?hl=ja&gl=JP&client=mv-google&v=jf9iTZ433zs

http://m.youtube.com/watch?hl=ja&gl=JP&client=mv-google&v=-gb0mxcpPOU

 強烈にシニカルな喜劇だそうだが、実際この物語に、監督はどんな風刺を込めたのか?最近気になっている。まだ観ていないため近く必ずや…と思っている、あまり余裕がないのだけれど。

 人間の生んだ科学が凄まじく暴走を遂げている。それに加担し手に負えぬまま学者も狂っていく。全ては現代の破滅にすっぽり入り込み、精神の随の奥まで埋め込まれていく。全ての物質を支配した気になって信頼しきっている。
 今の状態でこのまま日本が維持、存続できっこない。致命的なままフェードアウトしていくか、今後日本の全国民の八割以上が意識を変えるか。どちらかだ。そんな気がする。

 予告で紹介した公演は「アレクセイ・V・ヤブロコフ博士のチェルノブイリ被害の全貌」と題して公演がなされたが、それも結構だがまず、ここらへんの概略をある程度実態として受け入れる必要があり、全体像を知っていかなければ、あまり有効ではない。

前半部
http://m.youtube.com/watch?v=U9NUX3rljZE

 後半も入れると四時間以上にも及ぶ。視聴するレクチャはの類の番組は相当数これまでも配信されている。しかし、同じ考え方者同志が共有しているだけで、手を取り合って安心した気になってしまう。いずれ、abソーリのfabにそうした資料を転載し、国粋色豊かな、「正論」集団に読ませたいと思っているが、時期尚早で自分はまだ無力である。楽観主義の者らが笑いに転じるか馬鹿にするか黙殺するかのいずれかだ。相手を知らねばならない。彼らの手の内を知り彼らの立ち位置の背後から突かなければ振り向いてはくれないだろう。クダラナイ話しだが、第二次大戦アメリカが日本と戦争をはじめたとき、アメリカは日本の文化、言語を教養として、一般の兵士にも教えこんだ、と聞く。確か、養老猛司)
 上の広瀬氏や小出氏を多く見続けているが、このようないくつもの話しを聞くたびに「地獄絵図」をみるようだ。以前嫌な夢ばかり見ては、よんでいた「往生要集」の一巻を思いだす。最近も嫌な夢ばかりを多く見るが、夢からあと目覚めても現実がそんなような夢と同じようにあると気付くと、フッと我にかえってしまい二重に落ち込む始末である。精神衛生にはとてもよろしくないがそんなこと言ってられない。精神的ストレスに敏感な人は読むな、である。
 しかし、なぜこんなにも強く原子力を人間は拒絶しているかは、我々の、生存本能が、生態の意識が、無意識が、そうした集団・社会が、自然と拒絶するからであろう。私たちは生存や生殖に叶ったことは非常に受け入れやすいし、美しいとさへ感じる。そうした、例えばエロスも、例えば水も、こうしたことを想像するだけで、生命の生気を与え、生態の細胞ひとつひとつまでもがそれに反応していくことを感じる。芸術では長い間そうしたものを多く取り上げ描いてきた例をみればわかる通りである。
 今、しかし、そんな人間好みに関わっていただけではもうやってられない、自分である。学者や研究者のジャーナリズムの提示する危機意識のレベルは、その診断を、その分析を、その回答を、読者にその細部にわたるひとつひとつの内容について教えられ、フルになって読者が主体となり、見抜き、その判断が求められている。

 冷静に聴くよう努めているうちに、なんだか昔、自分が小学校時代に、先生がこんな話しをしてくれたことがあった。小学生に対して話すにはとても簡単でもとても難しいことだ。とても高度なことを大人になって今でも、考えさせられる話しをしてくれたことだった。
「嘘をついていいわけないが、嘘をついてもいい人がいる。」
「誰だかわかるか?」
「お医者さんだ。」
その訳を話してくれたが詳細は失念。大人になってみればたいへんわかりのよい事だが。
 家族と患者とでは全く異なる診断を知らせても、やむを得ない場合があるだろう。だが、それとこれとを混同するなら、相当におバカといえる。それと似たことをやっている公は、自身はそれで言い訳しているんだろうか?、許されると思っているんだろうか?総勢1憶数千万の日本国民に向けて、その社会全体に対し同じように許してよい現状では、今はもうないだろう。
 個と社会とが有し、個と個の、個と社会の、社会と社会の、の三つの状態が常に同時にあり、かつその間には、≦、≧、など力関係や包含関係が働き、後後に作用しながら社会は動いている。(集団的)個)が幾多の局面で互い互いに利害をハカリ、価値や思想を伴い、我々一人一人は、あの3・11人災を起こした、事態に真摯に立ち合うならば。もし。
 少しずつ我々の意識は変化しているはずだ。生態として、それは本能的であり、それは理性の支えるものであり、倫理と(自然・法 が支えるものであり、必然的である。生存に準ずる社会に向けて、少しずつマシにしていく道程を踏むことはやらなければならない。これからの万人の課題であり、摂理であり、それは取り戻しが不可能なだけに究極の課題となっている。我々文明国はその筆頭として「私はその中で生きている」確信的犯罪集団として、その悪魔の申し子として、それになんら言い訳できない世界に、産まれ、生きていること、次の、次の世代も自覚しなければならない(私はその中で生きている)
 非常識とも思いたくなる。聞く耳さへふさぎたくなる、信じたくもない。語り主の啓蒙も洗脳も、誇張した形容詞も、脚色も、誇張した罵声も、激怒する感情もそれらを排除しながら懐疑しながらしかし、じっと耳を傾ける必要がある。
  内部批判が要る。
 因みに自分は理工系出だったし現在製造業の仕事に携わり日本の生んだ科学技術を尊敬さへもするがしかし、その社会内部から「ダメなものはダメだ!」という批判を前提に提示していくこと。

 今はそれしかできない。