今日は仕事休む。音楽雑記、他


G,W の日記を抜粋、
「父vs他者」


 オランダの哲学者、スピノザ、エチカを引き合いに父の言文について話しを持ち掛けたが、ことごとく叩き潰されたゴールデンウィークだった。
 「みんなここからなのよ!!!(私が持つ本を指さしながら)批評もアートも全部!!!」

「みんな…」という冒頭での、お父上お得意の全称否定。ハハ、テンパパババロア、チュアアマなやんちゃぶり。
 俺のやってきたことに他人は一切口出しするな!たとへ息子でもな。という感情触発がまるわかり。ちょっとそういうところで、殆どつまらないケンケンやりとり、尻窄み、だった。
 

(もう、いい。)話しの途中で、手を遮り、いたたまれず席を黙って立つ、時、思ったよ。(あぁ、いいすぎたな、たぶん互いに隔たる思想の・かなしみを=喜怒哀楽の感情ではなく、自身の個々に生きた経験体験一切を

 「おまえはなんだ?
 なにがわかる。


っていう、あれ だ。
 社会に埋没したリーマン茶々輩が、わたくし、帰宅電車でガタガタ揺らす座席で、膝元で開く、スピノザ、エチカ=生態の倫理)。郷里の田舎の裏町、古書店で購入した書籍をひらき、活字をおいながら、果たして、言葉とは人とを介するものだろうか?書籍はいつも静かに黙っている。あなたがその書籍を開かなければ書籍は、いつまでたっても口をひらかないから。「言葉とは人とを介するものだろうか??」父との対話で、言葉で呼び止めても、どこかそこに人を吟味し、人を書籍の中ウチに準ずるも、その言句から拾おうとするも、吟ずるうちに味わうに至って、

 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれによって考えられるもの…(定義三)

ただそれのみ、(言葉にしても)(、詩とは、)直覚の感受性や発情の直接的美学となって人(間)から汲むはずなんだろうが、如何せん今日的そうしたさらし祀る個々人(間)の表現芸術や文学の分野は、それではもはや歯が立たんから。世間に積もり積もるそんなコンプレックスをかみながら、某父私なんかもなんら打開できないでいるのだから、
 頭でかかえてもはじまらない。かくならかけ。そこからしかなにもはじまらないじゃないか。
 読者も観者も副次にすぎない。誰もみないところで沈潜するポテンシャルを一に必要とする。それなくしてはなんらチカラも蓄えられまい。
 現代ナンチャラ表現主義のミテクレを端から、みてて、もう、そんなところでは、なにをしてもどうしょもないから、という、父のコンプレックスも、私と同様に歯がゆいんだろう、

 「否定されたら否定するわけ?
 否定されたらそれを吟味したらいいんじゃねぇの
 それを真っ向こちらから待ち挑むところだろ!

・・・あぁ、いいすぎたな、父さんごめん。


 (そんな独白とは桁外れなエチカ) 神と言葉ととことん切り詰めた論、数少なく数行のなかに、スピノザは無宗教論者であり、レンズを磨き、なぜ神を、わたしの無能読者からしたら、なぜこうも合目的に体系づけていくのか?、デカルトの風潮に延々固執した当時ヨーロッパ思想界に異議申し立てたその、理路整然と淡々と綴る一文一文が、今日のあらゆるカテゴリー時代に、どう、読み解かれるんだろうか。無能者にとって手の届かぬ一文一文に、その切り詰めた(本の中の)端々は、星図本を開いたように、輝いている。

  家の寝床にて、ぺらぺら舌でなめくりながら、脳内血管は消耗し、細分化したうえに共有した、概念や思考の遊びに甘んじて、たまたま人智の某を括り、翻りも迸りもなにもなく、冴えず、萎える日記は、紆余曲折しながら、あったまプリンプリン、堂々巡りに狐につままれた読み者‘一刻者のもの言いたげ’な、それがまた、楽しいぃわ。





  本格的に纏めなければならない、こちらから発することの言文を、父に対してできる使命を、捨ててはまだいない




遠藤剛煕の(一般教養的に誰もがわかる)仏教哲学思想の語りも、記事にいれていこうと思う。それを全部ひっくるめて父と先生双方向の語りの記録を文書に起こし、ファイルに綴じて贈ろうと思っている。そうして二人がいつか、また二人が出逢えたらいいと、思う。

父と絵師が握手したあの出来事が、(三年前だな、)
忘れられない。

遠藤絵師、最近こんなこと話していた。

「我思う故に我あり、
コギトエルスムス
自分は思考する
徹底的に否定していく
だけど考えること
思考することを
そこに、自分だけは
あると言ったのはデカルトだなぁ。
でもまぁそれわぁ、まだ僕からみたら、まだまだそれは、人間の本質の実存なんか、なんにもついてない。(…三分もの長い沈黙)まだ、人間中心ですよ。

「我存在するゆえに考えることができるっちゅうのが、東洋のインドからでてきた思想です。

そうゆうのは私の場合六十年間毎日自然を黙って観てきたわけでしょ。黙って独りでね。自然ってしゃべってますか?山川草木はしゃべってますか?存在してるんですよ。

ね、


その黙って自ずからある自然を人間は黙ってみるんですよ。現代人はなんも見んとしゃべりまくっとる!!!


………」

遠藤先生のこのボイスの一節は忘れられない話しだだった、

父にも先生の語りを文書にして贈ろう。そうして最近の親父の文書も先生に渡そう。父の展覧会の資料欲しい、と言ってたからな。

芸術作家の、ふたりのマジ・ワリがいつか、とんでもなく時代の思想のカクとなるを、予感している。

ヘーゲルの認識問題にすぎないかもしれないが、所詮。

*


http://www.youtube.com/watch?v=bpq8k3EPaS0&list=RD028gMUz5nGcAY
あのよでゆっくり口ずさみ、原っぱで寝っころがっととりんしゃいともよ、俺もそのうち行くから待っとりんしゃい。
久しぶりに磯村仁志と聴いたコクトツィンズを懐かしむ、http://www.youtube.com/watch?v=2a0O799H4So
生きることなぞなんもやる気がなかった時があったからな。彼とはペィブメントも喜んで聴いてたな。

http://www.youtube.com/watch?v=sVhsO-Nbl5M&feature=endscreen&NR=1

http://www.youtube.com/watch?v=Vu1eZpZsrvg

とてつもなく賢く、知性に溢れた青年だった。働き過ぎだった。


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最近、一押しアルバム、ベスハート、ジャニス・ジョプリン・・・ぐらいいい