最近読んだ本から随想


 近年の思想界において著しく目に立つのは、知識の客観性というものが重んぜられなくなったことであると思う。始めから或目的のために、成心を以て組み立てられたような議論が多い。従って他の論説、特に自己の考に反する論説を十分理解し、しかる後これを是非するというのでなくして、徒らに他の論説の一端を捉えてこれを非議するにすぎない、自己批評というものが極めて乏しい。単なる独断的信念とか、他の学説を丸呑みにしたものが多い。私は或動物学者から聞いたことであるが、ダーウィンの「種の起源」という書物は極めて読みづらい、その故はダーウィンという人は、自己の主張に反したような例を非常に沢山挙げる。読み行く中にダーウィン自身の主張が分からなくなる位だというのである。……
西田幾太郎の随筆の一篇「知識の客観性」の冒頭である。

以降の文内容、簡略化してしまうが以下ように書かれている。苟も学問に従事するならばこういう心がけが要るだろう。知識の客観性といっても、私は或時代の真理と考えられていたものが、永劫不変だというのでない。何千年来自明の真理と考えられたユークリッドの公理も、一層一般的な幾何学のひとつとなったのである。それぞれの分野がそれとして客観性を有している。単に変ずるのではない。その時代の或目的以外に何らかの意味を持つ。学問的真理を考えるかぎり、永遠なるものに触れることがなければならない。


西田は哲学者でも、ここで述べている事柄はたいへんわかりのよい話しだ。ある分野を探求する際に陥るアポリアを示してくれているように思う。アホかどうかわからんが、そんな父とアホな私の交わす話しはほとんどその辺りでお笑い草である。途中で記事をストップした訳は、独断的信念から一方的に展開させていくようなものだから、絵画芸術に関する或断片のひとつの捉えかたが、日々日常性の価値観にまでも及んでしまうような誤解を与えかねない。そんな気がした。先日の父のトークは誰しもが納得できるものでもないだろう。長くやっている、制作や作家交流や、現代美術作品に対する独自の観、と乏しい言語能力、論にも満たない論、をいつも提示する。テクストもトークも自身からワカルことを発言し続けている。読者もお客もお構い無しにまくし立て、画家や芸術家でもない私たち周りにも聞いてもらいたく、遠藤先生も同様、父も本を読みまくって制作に活かすも、それだけならよいのだが周囲も巻き込み、ウンチク話しを喧喧と朝まで続け、げっそりして別れるのだ。「あぁまた言っとるわ。」みたいなもので、諦めて聴いてやるが、言っていることがさほど出鱈目でもなく、誰しもワカラナイ話しでもない。その分野に置かれた様々な問題をその人なりの説得力をもって伝えてくれる。学としては甚だ弱いのであるが。制作と私論とを独断に敢行していきながら活動する人。二人の芸術としての先輩として、そこに私は惹かれる。


惹かれるからといっても、そうして安穏としてもいられまい。先のジャッド云々もあんまりにも浅はかな理解の仕方に支えられているように思えてならない。物(作品)と私(観者)とが隔絶した状態に落ちる。その現象のうちに展開させているが、ああした物言いはもしかしたら史的唯物論や物質的弁証法などを若い頃信奉し染み付いているきらい、があるからかもしれない。ちょっと間違えれば、形骸化した思想に捕らわれ、新たな思想展開が出来ないまま膠着し、終わる可能性は大だ。何かもっと違ったカタチでそこでの学びを化生させていかなければならないだろう。はて?どうしたらよいものか。西田の随筆を読みながら考えあぐねた。

抜粋しながら、その問題(ジャッドの作品について父が述べた発言)と照らし、メモする。

如何なる時代に如何なる作品が開展したかということは、歴史や社会で説明できる。作品を歴史や社会存在のコンテクストと考えられるなら、我々の精神的内容を有するはずだ。そしてそれは少なからず表現的である。その意義内容をその独自性を長く歴史存在に残す仕事が批評家のやることであろう。ところが作家は違う。他の作家の作品について述べるのは自らの制作に対し新たな機を生み出し得ることへの期待感があるからであろう。つまりそうした作家の独断的信念は、作家独自に組織された制作の裏付けからであり、少なからず現代社会文化歴史が授与する“仮説状態”にまで論を到達させそして通用させることが必要とされる。(そもそも現代――*現代美術、現代思想現代文学*などとは、仮説の状態であるにちがいないのだ。)一人の独断論から脱却し現代の仮説へもっていく作業が要る。私(筆者)は西田のある一文を借りながら、父に以下ように話しを持ち掛けてみよう、と思う。


**(西田)我々が現実に生きて働いている日常の世界というものが最も直接な世界であるから、そこで考えられた世界から考え直すことをはじめなければいけない。常識とはそれを独断的にとらえているにすぎない。日常性を深く考えないままでいることが常識と言っても言い過ぎではない。それは何処までも深く基礎付けなければならない。当たり前とされていたことが或時代や価値の風潮によって変遷されるとするならば、その最下部の基礎が見えていないといえる。**


ジャッド作品が映しだされる意識(精神的内容)とは、

この一個一個の体タイはボディ、なんだけど、これはボディではない。体でなくて状態の態タイ。物の常態が裸になったカタチでここに置かれてる。これを僕らがみるときにユニットとしてみれる、頭の、記号の常態を物から脳みそでみれる、という、ね。僕らはこういう身体カラダになっちゃったもんで、人間の五感身体から全く切り離されたものを、そのままボンと置くのよ。アートで、これは突拍子もないことだったんだけど、人間の僕らのカラダ五感身体を全部オミット(疎外)させていくのよ。
不必要なのよ。わかるら。僕らの日常生活のなかからこの、2ってわかるじゃないか。煙草二本がこれよりもこっちのほうが葉っぱが多いとかさ、ね。
一個一個同じ物はない。って言ってたのよ、同じ物はないんだから、一個一個を、僕らは探してたのよ。
芸術作品をユニットとして置かれたとき、ジャッドは一個にしちゃったのよ。

という言説について、こうした意識現象が働いたとしても、それは同じ車種の自動車でも、タイヤでも、我々日常にはそうした物質に溢れている当たり前の社会現象となんら変わりはありません。というよりもむしろ、ジャッドはその作品を、非日常世界ないしは虚構の世界といわれていたアチラの芸術世界を、我々の直接的日常世界のあるがままの事象にそうしたカタチを持ち込み措定したのだ。と言えるのではないでしょうか。観者の人の身体がそれを前にして、オミットされる意識作用があり、そうした受身の身体的暴力性があったとして、そうして、自身が埋没していく姿が自身のうちから観えたとしたとしたなら、あなたがよく拒むところの物語解釈と、なんら変わりないことでしょう。もし特殊物体が青白く輝いた死の灰がガラス容器に箱詰めにされ、それが展示されていたとするならそうした理解も納得できますしかし、我々日常においてはなんの違和もない事象なのだと思います。無私性や無対象も同様にです。芸術においてはそれまで「非常識」であった事柄が芸術世界のなかではその「非常識」が「常識とされていた」ままだった。ところが日常世界ではそれら事柄をまったくの常識として有していることに気づき、芸術人たちは慎重にそこでの反省を促し考え直しにかかったのかもしれません。私(筆者)は日常世界とは隔絶した中で芸術が自律したカタチで独自の世界が繰り広げられる「夢物語」を信望して止まないでいたのですがしかし、現実を直視した場合には、それらはまったくの独断的信念にすぎずつまり、日常性の世界を深く見つめたときには、その基礎に隠れていたそうした事象を無視できない。そこからはまったく逃れられないのだということを、言い換えるなら日常世界とかけ離れては芸術とは存在しえないのだ。ということを気づかされたようです。浅はかですが、受容美学の見地からするとそう、解することが可能ではないでしょうか。…以下、そのように捕捉いたします。/以上。