美術対談その3 その他

アメリカブレの大画面についてのWikipediaの資料。

http://www.google.com/gwt/x?gl=JP&hl=ja-JP&u=http://www.geocities.co.jp/mcma2010/sub/details_04.html&client=ms-nttr_docomo_gws_aw-jp&source=sg&q=%E7%BE%8E%E8%A1%93+%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%94%BB%E9%9D%A2

携帯だからPCでは直接アクセスできないかもしれない。


ボイスレコの続き

父)いっぱいでてくるわ、アメリカの大画面は。3メータ4メータ10メータという画面と1人対峙するんだわ。

私)あぁ正方形も、あぁあるね。あんなのはでも結局さ、***パニックだよ、視覚から感覚へとおとしこむトランス、もそんなの今さら絵画で、いまじゃそれを代用させるものがいっぱい、そんなんでは現代絵画は絶対にこれから通用しない。(そう思う、)

父)身体に対してAならAだけを与えるだけだに。そんじゃこれを、今これをね。一番に、俺はドナルド・ジャッドを云々するのは、なぜかというと、ユニットという概念。つまり同じ形状物を、いいかな?今ではこれをさ、(煙草二本を机に置く)2として僕らは見れる能力になっちゃったのよ。その前までは林檎とか煙草とかそれぞれ一個一個があってそれぞれ別個にあって、自律、安定、成立してたのに、ところがさ、これは“二本だ”ってもうわかっちゃたのよ。こういうユニット概念に縛られちゃってんな、俺たちは。これを絵画にしちゃったのよ、ジャッドは。絵画じゃないオブジェだけど。

私)うん

父)ジャッドはそれを、立体物、キューブを、特殊物体っていうんだけどな。いや彼が言ったか評論家がそう名付けたか、ちょっと確かではないんだけども。

私)うん

父)この一個一個の体タイはボディ、なんだけど、これはボディではない。体でなくて状態の態タイ。物の常態が裸になったカタチでここに置かれてる。これを僕らがみるときにユニットとしてみれる、頭の、記号の常態を物から脳みそでみれる、という、ね。僕らはこういう身体カラダになっちゃったもんで、人間の五感身体から全く切り離されたものを、せのままボンと置くのよ。アートで、これは突拍子もないことだったんだけど、人間の僕らのカラダ五感身体を全部オミット(疎外)させていくのよ。

不必要なのよ。わかるら。僕らの日常生活のなかからこの、2ってわかるじゃないか。煙草二本がこれよりもこっちのほうが葉っぱが多いとかさ、ね。

私)うん

父)一個一個同じ物はない。って言ってたのよ、同じ物はないんだから、一個一個を、僕らは探してたのよ。
私)ん゛ん(咳払い)

父)芸術作品をユニットとして置かれたとき、ジャッドは一個にしちゃったのよ。

私)ん゛ん(咳払い)

(別に誰かがやってたでしょ。ウォーホールのモンロの複製だって、時代の必然だ、そんなに誇張して、ジャッドだかだれだか知らんが、普通でしょ、そんな。今さら。)

父)ワタリの美術館にいっぱい持ってきたのよ。そういうの。そのおばあちゃんに会って話したんだけど、ジャッドの作品について、
私)ワタリの美術館って何?

父)ワタリウム美術館ってのがあってさ、

私)うん

父)東京都現代美術館にあるジャッドの作品の展示の仕方はは俺は認められない。てな、オマエ観てないかもしれないけど、ジャッドの作品は入り口にあって、
私)四角いやつがいくつか壁にくっついてるやつでしょ?

父)ん、こ、こ、こう、そう、そう、そう。

私)俺だって少しは見に覚えあるがな、どっか現代美術手帳とかで。

父)見た?

私)いやぁあ写真しか、

父)それがね、ここに置かれてるのね。入り口の横に、すごく暴力的な。

いや彼の仕事というのは最低限スペースがあって、もぅ、廃屋でもいいのよ、そのスペースのなかにどう置くのか、っていうのが、プランも作品サイズも全て彼が決めて、自分が製作するのも全て職人にやらすんだけど、そして展示のさいにあの人が来て全部ゴミとか拭きとって、その会場に置くんだけど、ここに置くなら(入り口から歩く突き当たりの真正面)ならまだしもここに置かれちゃったらさ、(入り口から入って右横)この暴力性がさ形状がさ身体的に威圧感があるのよ。それはあっちゃならんのよ!!

私)ワタリのおばあちゃん?、え、どういうこと?

父)都美術館がワタリを通して買った作品、

私)あ、ワタリウム美術館が、そのおばあちゃんが、何て?

父)ジャッドのその作品を一度もみてないんだ、と。怒ったのよ。あの展示じゃダメでしょ。
ある時日本でも、ジャッドの作品群がいっぱいきたのよ。であの、埼玉の近代美術館で学芸員と会って、展示の仕方は全くなってない、未完成、いろんな光が入ってきてさ、仮設であるけれども、作品てのは周りの環境とさマッチしないといけないじゃんか。特にジャッドの場合は、ところが光がへんに入ってきたり、狭いところにいっぱい置かれてたりしてさ、そういうことを見てて、だったらどうやって展示した?聞いたら、協団の人が来て展示したって言うんだけど、俺からみてて、成立してないな、と。ながぁ…長あ

ワタリウム美術館にジャッドが直接来て展示したのとはもう雲泥の差。他のをみて全然面白くないのよ。
それぐらい考えてやらなきゃ展示、まギャラリーであろうと、美術館であろうと

もうそれぐらい、ジャッドがどれほどすごいかってのは其処だね。だけどどれほどー、人間を

どうしちゃったか?

私)どうしちゃった(笑い声)って


※遠先生やゴーキ美術館の学芸員の内藤さんにもこの文書、完成したら渡そう。前半部分で、残り半分まるまる、ぼちぼち、展開していこう。以降話しが延々朝まで続くが記事としては、だんだん、おもしろくないためオワリ。


 ネット行き付け文学サイト覗いたが。なんだか、わからない。見せびらかし長文タラタラ、おちゃべりチャットちゃん、PCネット様式、頭のお遊戯か、こういうのが現代文学か、わからない、難解というより、読んでもまったく良さがわからない。私にはなんら、読むとこなし。好き、嫌い、いい、悪い、いろいろだ。ネット内の希薄な集団が、2ちゃんねるの揚げ足とりやお膳立てや文面処理に明け暮れながら、あちらのサイトの、若手執筆者、現代文サポートをできるのか?、あれで、甚だ不信である。私は執筆の才能がないばかりか批判ばかりしたためか、というよりも、もっと他に訳がある。何かしら物書きや文学生や文学評論もいるようなのだが、もう、まったく、得るとこなし。尊敬する人がわずかでもいたが、もうなんだかわからない。
 ネットも(ユニット概念もだが)なんか人間を駄目にする、気がする。誰とも人と接することもなく、誰とも話しをすることもなく、過ごせる環境を、ネットコミュニケーションツールはつくったが、私たちの身の回りの本来のコミュニケーションはもう、そっちとは逆に相当に詭弱なものに変質されてしまっているようだ。そんな様子を確かに、街の中に生活し感じる。喜怒哀楽の人間感情を、無表情な顔をしながらインターフェースを覗き込み打ち込んだり読んだりしている。これも文化といえば文化なんだろうが。自分はもうそういうのがムリだから、そろそろブログも不必要にしないといけない。

 携帯で文章を打っていたら次に続く文章が画面に出てくる。予想した単語や予想外の単語や次々と映し出され頭のイメージと似たような意味の単語を選び、そうして作成する、まったくそうしてひどい文章である。そういう文章をネット現代文、文学投稿サイトでも読む。プロの執筆者が原稿に書き起こす作業をバカにしていない訳はその点にあると思われる。
 誰だか知らない機械のような文体、生態の意識と言葉と対象とがもうめちゃくちゃの文体、無味無臭の機械のような文体、そうしたものがネット環境を通じて読者にもよく馴染むのか、クールでそれがいい、そう感じているのかもしれない。私には、でもその良さがわからない。あそこで自分が文章にした詩や誰かへの作品についての私からの返答文、をここにも載せようか。ここでの記述内容にも関連することばかりだが。
「みんなしゃべってばかり。自然を静観な態度で接しない、みんな頭の観念ばかりで描いとる。」

今日、画の絵師が一言、ぼそっと、そう、呟いた。忘れられない、いつも、よくする口癖だから、自分もよくそう感じる。先生との対談もいつかここにも紹介しようか。仏教哲学が好きでよく話題にしてくれる。私もそちらにもすんなり関心が向くようになった。ネットコミュニケーションではそのようにはなれない。私の場合は。

相手を知り相手とのコミュニケーションがはかれてから、ようやくだ。情けない。無表情な日本人は語に感情をのせてやり取りをするが、そうして感情がその言葉とは関係のない離れ方をして、ときに暴走する。文章が読む側に何か与えるとしたときに、識(Wisdom)ならよいが、感情の共有化、が先行するから、日本語の性格が数百年もの間、それは日本の精神風土、社会的習慣など、いろんなものが含まれ馴染んだ特性なのだろう。