真締め ドライバー
12/23
●は●で返していくしかない
仕事は仕事で返していくしかない
と話してくれた。
久しぶりにゴゥキさんと逢え、いつでもまた遊びに来てください、と、握手を交わし。「また再び通いにきますね。」
弟子の内藤さんは、端からみたら奴隷状態に思うけど、ここを、信じて絵と美術館運営をやってらっしゃる。たいへん、文化事業は身銭を捨ててやっても、このご時世、本当にたいへんだ。(隣の友禅館の博物館も今年で閉館と聞きショックだった。)またボランティアとデッサン通いを約束した。応援したいから。
12/20
冷たい息をさす風
遠いみちのく並み木道
ポプラや落葉松にしたたるまばゆいツリー、両の手に息を暖め
駆け込み乗車路面電車
鞄肩にかけニット帽
ドンテュノ
時がほぐれ
踏みとどまり
停車駅
12/19
草の葉の根をかきわけて虫一匹
口をあけお炬燵(こた)に蜜柑足ひとつ
ストローちゅうちゅう脳の内圧吸いまくる、畳のダニに咬まれて、浅寝る(あさいねる))
剣士のつるぎの報いは必然の心の刀
三日月夜食いつく魚に銛を刺す
みよしのふゆ空
そといでて
きたるらんらん
身ぐるみ包み
おんぶにだっこ
子守唄
寝る。
12/16
第六三のコーラス
「なあマジな話だがな
このあんたのサンフランシスコ・
ブルースは
過ぎ去りし夏の
サメのひれみたいだな
サリー・ソーター・
フィネガン* ってとこか 昔のちょっとした娘さ――
恋人のあんたには
茶番なんだろう
図星だろ?
買う気もしないな、おれは」
ボロナイフで
耳落としてやるぜ
身を隠した悪党に
ヘィ!
目を走らせサバナ・キッド
うなずいた
隠れた
詩は
ただ
あざむく
* 50年代にソーターとフィネガンによって率いた、ジャズオーケストラ
第六四のコーラス
メキシコに似たカリフォルニアの夕暮れ
窓は金色がかったオレンジに染まる
破れた日除けがばたばた鳴っている
イアリングに、甘い香水オールド・
ウィーゼル・ウォレットふりけ
歩道を流して歩く
黒人娼婦に身をやつした
偉大なペルーの王女たちや老いた
パーディド* のドレスのように
商店の連中は
商売にやっき
おまわりが現れるまで
夕方店から出て
並んで客引きだ
彼らは缶やら鍋やら
騒々しい雲の中では
ヘラジカもヌマジカも
セイウチも
区別がつかぬ
* バーディド湾に注ぐバーディド川のことか
夜半読んでいて意外といいぞ。なかなかだ。高校時、ませた奴が「路上」を進められあまりピンと来なかった。今まで、サブカル的レッテルを張り付け、気取り屋が知ったかぶりに読むもんだ。こんなもん。ロックもブルースもろくにわからんやからが、所詮外来種だろ、という突っぱね方で避けていたが。散々音楽であちらの方の詩も、僅か数人でも惚れ込んでいたから、改めて二十年ぶりに買うて、損はなかった。「ふつうつとしたネクラな徘徊詩書き野郎やろ。」という今までの思い込み、どころか、溌剌としネクラな自分をも開放してくれる。サンフランシスコの温暖な季節に、この土地に憧れて、読む。聞き慣れない名がいくつも文にあり、礫を拾います。改行の懲り方もいいです。
1953‐56年
2012年、今から期待しているスウィートソウルの、フォークの一枚、ファーストアルバムのベンハーパの質素な感じでも、落ちついて、静かで力づよいソウルがこの人からも伝わる。自分が好きなトレーシーチャップマンを思い出す。ヒットするだろうなこの人。あまり世間に身請けされず”チャラチャラせず、地道に歌い続けて欲しい、と思う。画家のバスキアのようにはなってほしくはないもの。いいファーストアルバムだった。いいソウルシンガーの人に思う。
http://m.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&client=mv-google&rl=yes&feature=relmfu&v=OlXkKCa2yy0
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12/12
ボタンジッパーくわえ紙たばこ、くわえた財布金銭勘定不足をきっちりちゃんと次回払ってくださいと酒場でまたツケ。うざい外聞をいくら聞き流しても逃亡疾走の無免気取りにクラクション、ファッファッファッと外資のダラダラ通貨のおべべのビーエムファッションションション。通りにポンビキおやじ、意地汚い燕尾の紳士輩がどうもどうもと旗降り沿道をご挨拶。無視無視断然無視、どこここ?、なんじゃこれ、何時も何時もマニュアル通りのお前ら笑うセールスマン話芸当もねぇくせに。
と
一先ず上打ち、中腰座る瞬間ぶっ倒れ、土手のカモの川にて冷たいせせらぎ耳水流れ、ささらほうさら棘刺す風、さらっとまぶたに見ぬことない面影、額面を左片平体熱計り、ガタガタ怯える手指ボタン、朝方またあのツルッぱげオヤジがズボンポケッに手を入れ財布盗みに俺を起こしてくれるだろう。
賑やかなガールズパッカーネヤネヤニヤニヤハハハ、「えぇなにそれぇ、とんでもなくオモロゥいわ!」
「ヤロ、ヤロ、ヤロ、ヤロ」
とんでもなく、オモロゥぃ?
ほぅ?とんでもなく
ん?とんでもなく
へぇ、とんでもなく
か。
すげぇや、初耳やわ。
やっぱり♀馬鹿と♂馬鹿笑い、鴨川の土手の草を食む子羊らめいめいクリスマス。賑やかな黄色い声が走っている、キャハハハ、宵のいつもな幸せカモに囲まれて、鼻水も出んで、一人コートを背中に抱きしめ、酔いを冷まして。
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とうび術館来年2月NAU父出品予定作
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※※※※※Picasso※※※※※※※※
そろそろ絵筆をとりたい。自由奔放に、
http://www.gohki.com/ったくいつかきっと会う手前、しかし再起は一人。「外に出よ大地に立て!」二人の生涯かけた九重の圧倒的威に阻まれず、めげず、あやからず、自分のできる計画でやれることをやれるなかでやることをしなさいとファーザに云われてにょろにょろ蛇の這いつくばった深い夢夜。※※※※※※※※※※※※※※※※※※
12/05
http://m.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&client=mv-google&v=25ayv6w6IMw
http://m.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&client=mv-google&rl=yes&feature=related&v=v415H2qkkto
1130
風と風とを食む小枝の指に厳しく落ちる血筋の赤い糸
夜空を指さし子供が、あっ綺麗なお星さま。振り返った私は、庭の飾るクリスマスのイルミネーションだった
>お星さまとは言ってなかったな。
母は、本当綺麗ね。と受けごたえしていた。
いぃ、二人のシーンを、耳にしながら、帰宅中だ。
あぁお疲れ。お仕事、お疲れ。
今日こそ、彼に手紙を書かなきゃ。
11月25日
財布がないから電車賃がない、電車賃がないから家の辺りを彷徨く、飼い犬の散歩者らを盗み見しながら、目映い真っ赤に染める楓の野木を見上げては、時折たちどまっては、暖かみの感じる赤と黄色のグラデーション、背景の抜ける秋空、斜陽差す光の滴、観て味わった、口を。今、無言の文字に移し換え、久しぶりにひもじい思いを感じながら、空き腹インプティ珈琲を胃のなかに流し入れ、台座に置いた一冊の日本的霊性を、時折、開いては閉じ、閉じては開く。読んで感じて考えて、なにかを感じて、また開いては閉じ、閉じては開く。自然と人間の有り様をつぶさにみせる、あちらの思想=近代日本の日本的アイデンティティー、パーソナル、パーソンズ、が仏教思想と馴染みやすいがためか、強引でも簡潔で分かりやすく、随筆されているのだがやはり、ここの生活環境風土に産まれ生きる私にとっては、身近に感じる。
「P137
霊性的自覚は個己における最後の経験であるから、一人性をもっているのである。ただの論理からゆうとそれは独我論だと考えられよう。そう言えばそうなのである。しかし独我的であるところに、すでに然らざるものが現れているので、独我論は元来ただの論理でも成立せぬのである。
(我々が普通に解する事の因果関係を倒置させては、明快に新しい答えを導き出していく文体が、心地よい。続いて…)
しかしそれはそれとして、霊性的直覚世界では、この直覚そのもののほかはすべて第二義性をもつことになっている。即ち個己的直接性を帯びないものはいずれ古びたものとして取り扱われるのである。
(ん?なに!この強引な持って行きかた。続いて、散文的に一寸感じてしまう文行が綴られる。)
他人の記録の注釈または解釈に憂き身をやつすことはしないのである。それは古着であり、買い置きであり、人伝てであり、報告であるから、そのものとしては価値のないものである。霊性はいつも一人(旁点‥)であり、覿面(テキメン)であり、赤裸々であるから、古着の世界に起臥することを嫌う。個霊は超個霊と直載的に交渉を開始する、いかなる場合でも媒介者を容れぬ。
(創造を為すとは、覿面にその者(物)を脱皮させ化生させつづけることであり、その中にその間(カン)に、どんな相対他者をも介入することは“できない”、とする私の創造行為の一番の大事な精神態度。その自分の考えに当て嵌めもできるが、、でだからなんだ?と、「はい続けてください、鈴木大拙さん、でだからなんだと?、」)
それでその直覚は、超個霊の個霊化でなくてはならぬ。個霊は個霊でしかも個霊ではない。
(出た!仏法的弁証、肯定を否定し其を否定し、どちらもただしくとも、それゆえに…、みたいな、縦の論でなく横の論で水平展開させていく。)
それゆえに個即超個、超個即個でなければならぬ。即心即仏は非心非仏で、非心非仏は即心即仏であると言うことは、この故にほかならない。霊性的直覚は最も具体的であるから最も個己的である、そしてその故にまた最も抽象的で最も普遍的である。それは一人(‥傍点)の直覚である。周辺のない円環の中に、中心のない中心を占めていることの自覚である。
(本の著者は禅をZENとしてアメリカヨーロッパに広めた方だから、終わりの文面は、禅に観た彼の境涯を心理的に言い表しているものにも感じる。)
これが親鸞の日本的霊性によりて表現せられると、「弥陀の本願はただ親鸞一人がためなりけり」ということになる。絶対愛の中に摂取せられるときは、善も悪もそのままにしておくのである。二元的・歴史的・直線的生活は、そのままで否定せられないでよいのである。
(文の主眼が次々転移し、厭きがこない、そして最後、彼は云わんとする内容を以下ように纏める)
否定即肯定、肯定即否定という矛盾の論理が、絶対愛即ち無辺の大悲という面にもまた当てはめられて妥当なのである。
ただ日本的霊性はこの論理を論理として見ないで、事実の直覚であると見ていることを忘れてはならぬ。
著、日本的霊性
第二篇、日本的霊性の顕現
9 霊性的直覚の時間性より
」
古いかもしれないが、21世紀初頭のいまだからこそ、大事なものが読みとれる。
1121
二回は さすが、逢坂の味は上手い、、話しが合うかもしれんが、背中が寒い。
考えを託します。
面倒くせから、
夜にお皿が翻っていた
肩をなくした
杞憂の、僕の手に
肩をくむことをなくした
貴に、掌あわせ
穴のあいたズボンに何万かあったなら君に逢いにいくのに、
湯呑みのなかに顔を埋ずめ、隣の客人にたのむ、灰皿ひとつ、貸してください。