思慮のメモ

 
 kotoba が  やっつけにくる


 あっけにとられて こんばん仕事帰り  ひさびさしらふ ネッカフェ 着席
わたしと誰かさんと誰かさんの三つのドアをさっさと閉じて、
火宅のなかアルルの女を聞きながら万歳三唱する 関辰夫さん
映画の看板描きから、絵描きとなり、幼少に一度だけお会いしたようだ
酔い病みさなか下記、村山カイタ↓云々は実は、村上華岳だった
チケット半券を甲斐さんからもらい何必館に訪れたのは先々先々週
人違いであったのだから、もう、どうしょもないのだ。)

 外縁をばかり騒々しく走り回る(筆)ばかりであった(私は)
 なにかこのうえない沈黙の内ナカに 打ち解けていく。

 村上華岳

 墨の暈しがやたらエグイ。“滲み”が面白い とされる昨今の現代美術一派の流行不易について
探りを入れたいところである仏画は綺麗だがフーン、(眼部はよく調っている がここまでで限界だろうか?、どれほど精魂を投じてもやはりここまでか?仏画は顔のなかでとりわけ眼にある。日本人離れした容貌は耽美で異国的雰囲気は宿しているが、それ以上のものが観えない。人間の内奥までをも仏の眼のなかに、ウツすこと、落とし込むこと、が求められるのだと思うが、喜怒哀楽的情を抑止しただけで、そこに留まるのみであった。仏画は神の仏としてでしか描こうとしないならば、世界に見切られてしまうのも無理もない。だから、どこまでその辺を意識するか?

 達筆な線が描かれている現場の息づかいが(伺える)硬い柄でなぶりがきされていた冬木立の絵図は、
思わず立ち止まってしまった。幹から枝枝へと生え、わかれるそのところに視点はいかない
くねるだけの線の集まりが、物と情動のかたまりが、それのみから、図像は木々が生き生きと連想させる。

 彼の書き残した一言、が思い出されたが
外縁をばかり騒々しく走り回る(筆)ばかりであった(私は)
なにかこのうえない沈黙の内ナカに打ち解けていくこと。
・・・・
(以降忘れてしまった。)

 絵師がついこの間、『今は誰もニンゲンをかけない、誰もかこうとしない。』と、
半ば挑発的とも思える発言がおもいだされるが、、そうかもしれない
日本の芸術表現の仕方が、その風土がそもそも、、昔からそうなのだろう
精神的観念などは外から採り入れられるものだ、、、とそう、思い込まされているようだ。
静かに思惟することから我々の感知しえぬ内奥の核心を掴み取り顕示することが
まず必要最低限の創造の条件であろう。おそらく“よ”の 外面ソトヅラばかりを巡り、巡り、
その所動にのっかり 他所化、他人化し、UNUSUALな視点は朦朧となるばかりで半ば抜け堕ちてしまっている。日々の諸々のなかに隠れた当たり前でない唯一の者、その内にある者を“きづくこと” One`s OWN の か が が 待ち受けている。(かのメモ書さへも、この一文さへも 自己の内奥から他者が語りかける。)
 
 わが身に来るのだ。そうして、こちらに向かってくることが面白い。
 (余白ではない)余白ではダメだ。

 アニミズムではない、今でこそ
 ホワイトヘッドの生得、
 アリストテレスの物活、は
 意識しておく必要がある