梨の木の夜路にて、、


ゆうやみこみち
こずえにかかるあかいふく

ガラガラ ガラガラ となく
よる、わたしのあるいたこみちを

ひとりの女の子は
風にとばされたい、と
すすりなく

その子のそとには
ひとひと あめか ふぅている
ガラガラ ガラガラ となく 
よる、わたしがあるいたこみちを

その子の落とした
髪梳く櫛を
見つけては拾い上げ
ほほにあて
指ではじいて
ガラガラ ガラガラ となく  
よる、わたしのあるいたこみちを


白く曲がりくねった塀のなか
雪の線を描いた木木の蔭
その子の落とした
髪梳く櫛を、

わたしは

そっと、もどした
落ち葉のしたに
ガラガラ ガラガラ となく  
よる、わたしのあるいたこみちを

ゆうやみこみち
梢にかかる赤いふく

風に、とばされたい と
ガラガラ ガラガラ となく
よる、わたしのあるいたこみちを

すすりなく

 



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先日仕事がえり、図書館に行き 山本安英の本を探したがなかった。
素晴らしいエッセイの演劇女優がいたのだ、とはついぞ今まで気に
なっていたのだが、図書館になく本屋で注文する。
やはり一度是非読んでみたいものだ。
木下順二とも親交があり、女優でありながら相当に優れたエッセイスト
に思えた。というのも以下のような一文をある本で目にしたためだった。


 「鶴によせる日々」山本安英

…しんとした空気のなかに、さらさらという流れの音にまじって、
何やらかすかな無数のさざめきが、たとえばたくさんの蚕がいっせい
桑の葉をたべるようなさざめきが、いつのまにかどこからともなく
きこえてきます。
 知らないうちに流れのふちにしゃがみこんでいたわたしたちが、
ふと気がついてみると、そのさざめきは無数の尖りがしたたる水滴が、
流れのうちに落ちて立てる音だったのです。そう思ってそこを見ると、
小さな水玉たちは、わずか三四寸の空間をきらめいておちていきなが
ら、流れている水面に小さな波紋をつくって、この美しい光の交響曲
は、ますます捉えがたいせんりつを織りだしているのでした。
そうしてその、きらめきわたる光をとおして、澄み切った水のそこに
若い小さい斧の芽の浅緑が驚くほどの鮮やかさでつつましくみえてき
ました。
  

中井正一著 美学入門 朝日選書 よりこの文章を引用していた。
著者は永遠の一瞬というタイトルのなかで続けて以下のように
エッセイを綴っている。

            
…まことに、オスカー・ワイルドの言葉のように、
「今見ていることがいっとう神秘だ」
と思われる瞬間がある。神秘と思われるほどあざやかな現実が突如眼
前にあらわれる。山本さんの場合も自然を通して認識の達しえない深
みにおいて、自分自身に巡りあっているのではないかまた同時に巡り
合ったとはその自分に決別し、自分と手をわかち、新しい未来のなか
に、または永遠のなかによろけ込む自分の新鮮さに身ぶるいを感触し
たのかもしれない。自然はときに自身を飛躍させるスプリングボード
となってくれることがある。
・・・ 
「決別するときはじめてほんとうに出逢えたのだ」
という対決を自身に強いたとき、美のもろさ、とはそれである。
美とは飛んでいく鳥が目をかすめるほどたまゆらを閃くものである。

・・・ 1951 



2011 06  という「今」 それはもう60年の隔たりがある。

 ヴィジョン=方向性=視、→カイネティクなART、芸術、文芸が現
在、目を覆わんばかりに(「今見ていることがいっとう神秘だ」と)
メディウムとイリュージョンにあふれかえってしまった。
中井氏がもし生きているなら、この「今」の現状を見てどう受け止める
だろうか?
 “新しい未来のなかに、または永遠のなかによろけ込む自分の新鮮さ
に身ぶるいを感触したのかもしれない。” 
というこの一文の“触れる”という言語が身体の具体的行為を差すが、
創造というなかから私たちはもはやその一語すら忘れられてしまっている
のではなかろうか?いやたとえ頭では理解できていても、時代環境ととも
にその重要な要素はますます影においやられ、
てしまったのではないだろか?例えばこの“スキン=接触=感触”を
“コンタクト”と呼ぶが、私たちはこれをコミュニケーション=伝達とい
う概念の意味あいでほぼ類似して解釈してしまうほどである。ネット内で
の創造性とはまさにこの接触不良という事態に問題がある。
 イマジネーションをクリエイトするとは 夢の、視覚の、ヴィジョンの、
幻の、蒙昧を、未来とが関係づけられ誇張されていく?。
いずれにせよヴィジョンとはつねに遠隔的な性質を持つものである。
 スキン=接触→コンタクトは「今」まさにわたしのふれているKEYであ
り。そこに新たな言語創造を導くものであるなら、この指先に意識を集中
させ、身体は、ここでは文字を書くという、労力も、行為もなくし、文書作成と
いう最も簡易な方法で文をツクろうとしている。
箸にも棒にもかからない全身全霊を、言霊を、きかいの“もんじ”に宛ててゆだねっている
文字(モンジ)とは=文字自体を言霊とする、文字が宇宙であり、ビッグバンであり、
不生不滅のもの、すなわち神である。という、、神の顕現=もんじ
という真言密教の思想があった。詩は、書であり文字であった時代
今詩は、我々の扱う詩はその実際的な秩序を放棄し、破壊し
個々の我々の肉筆から滲み出る神秘的形象を放棄し、破壊し
機械言語への変換、記号化、記録 データ化 そして
機械ユーザ同志の互換そして、仮想の癒着(=無関係なもの同士が架空に手を結ぶこと。)
可知のテクノロジーは今後新たな可能性を示唆するといえども
宛てられた相手への伝達コミュニティの媒介物としての環境に
適合したネットを用いて、より多数のユーザに顕示される
基盤においていかなる詩も絵も文学も芸術も、
すべては、彼の一創作活動の紹介、イントロダクションにすぎないのだが・・・、

それをいち情報と解するうちは健全であっても、芸術の最善の途上ではない

それだけに一辺倒に言葉を落としていく
詩という文学がそこから
感動をあたえられ、読者に感受されるものこそが

しかしそれは、よくよく吟味すると読者自身が、
彼自身によって“触発”されうるもの、
欠かせぬ肉体の手と腕とが、
そこに触れて掴むもの。があったからだといわねばなるまい。
今見ているのでなく「今触れていることがいっとう神秘だ」といわねばなるまい。
小手先とは余技であり、枝葉の幹を失くした小枝であり、
PC上で著現される作品が、いち情報、自身のための他者からの参考資料として解するうちは
それはそれで健全であり、好かれと思う、だがやはり芸術の畢竟の途上ではない
詩のようなもの。それは余儀であり、詩を、余技で弄ぶ人。
PC内でつづる詩も、私もそのひとりかもしれない。
いやそうであることに恥じ、断じて甘んじてはならないとするなら、
自壊せねばならない

ある投稿詩人に触発され、私は訳のわからない自分のレスに先立ち
面白がってくれるだろうという予測とは裏腹に
その詩に対する他の読者の罵倒の末の罵倒に、私はもう、もう、
なにも言う気にさへなれずそこでいくぶんふんばる勇気もなくしてしまったのは
どうしたものか?むりなのだろう
詩に触発されても筆者のことはなにも知らないのに
いぃ、いぃ、この詩はいい!
あの繭からでてきた蛹のように、新緑が、絹の糸のように織られた
山本安英のあの一文を思い出し・・・携帯で追記しようとしたが
感想を付したかったが、先をこされてしまった。
繭のような、僕などと、、

作者に宛てた自分の感想が癒着であった
他の読者の胸をわるくさせてしまった、のだろう。

今日携帯をなくした。画教室にもどり探しまわる
電車に落としたのだろう。 が、っく、り だ

BOOK OFF で 二冊購入

 小林秀雄訳のランボ詩集 

山形なんちゃらの和訳文と比較してみたい。

 町田康、きれぎれ

町田もなんでこんなにやる気のない腑抜けた文体なのか
と嫌になるのだが、そもそもPUNK詩人などは
 I don' wanna be 〜 がリリックのスタンスだとか
(ピータ・バラカン曰く)、ならそうか、
わからんでもないが、
だらしない自堕落な自分と同じスタンスがよめて、
面白いのだがいやになり、途中で閉じた
スターバックスにて、本日20:47 2011/06/12






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老松

京から太宰府に左遷される手前 梅の木に詠んだ

 東風吹かば、匂いおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ 

そう詠んだ歌人 菅原道真のあとを、太宰府までその梅の木が飛んできた
それを追いかけるようにして老松が飛んできた

飛び梅を追いかける松

太宰府安楽寺の参詣におもむくと
花守りの老人と出会い
天神信仰の伝説を話して聞かせてくれる

老松の云われを語り老人は消えうせる

すると梅と松が人間になり変わり
菅原道真の前でにあらわれ
舞いをはじめる

というあらすじの能楽を生まれてはじめて観た。

能楽
伝統芸能室町からさかのぼり4百年。
脈々と受け継がれているのだが、
閉鎖された蚊帳のなかで
形骸化された伝統様式なのかもしれない、
とはいえ、時代精神や現代という価値感に風化されない
碑のように日本の文学や文楽のなかにもまた確固としたものがある。

古典の語は聞いてもわからない
台本を都度都度めくらねば解せない
衣装に匿われたシテの霊妙な舞いはやはり息をのんだ
地の謡、つつみ、太鼓、笛、奇声を発するかのようなような雄叫び
その異様な楽曲のなか、花道からゆっくりとシテがあらわれる
能舞台までくるに数分、じっとこらえ、観るもののときの流れが
もはや日常とはかけはなれたなかにいることを感じる。
異質な時空を能の舞台劇に浸透させる
数分の時を要し
花道からようやく舞台に立ち
不動のままただじっと立っている
地謡いの日本独特のリズム、奇異な雄叫びとともにと
シテの振舞いはただじっと立っているという振舞いである

待たれる

松 待つ こと そしてこの精神、これが大事
と誰だっけテレビで大昔 歌舞伎の俳優がいっていたが

いい加減動け

なんてやきもきする私は
やはり、鑑賞者としては失格なのかもしれない

ようやく
着物の裾の下から白い袴を
片方ずつ出しながら
半歩ずつ動いていく

ゆっくりとした擦り足で
両腕の垂れた袖は
前に突き出ている
頭は微動だにせず
面ツラは気持ち右よりに顔を向け
前に進んでいく

おべべがからくり人形のように動いている

能舞台
反時計まわりに数周まわって
ようやく扇子をひろげる

舞台に表れてここまでにくるにおおよそ“時計時間”は
15分ないし20分いやそれ以上を要する

退屈でしかたがない反面、やはり私は
“時計時間”から逸脱した
“身体時間”を感知する
音楽の謡いとシテの舞いに忘我する

夢うつつとはまさにこのことか

台詞をいうが訳がわからない
日本語の古語は外国語同然
なにを言っているのかわからない
古語といっても当時のおしゃべり口調の口語ではなく
当時の書物の文芸そのままの文語であるのだから
・・・つかまつりそうろう・・・
・・・つかまつりそうろう・・・
ばかりがきこえ
なにをいっているのかさっぱりわからない

欠伸をしながら寝てしまう


まぁ また、いつか 、


体験にすぎなかった
だがよかった、
よかった、
風姿花伝を読まなきゃ、と思う、

あぁ また、いつか
(歳くったら、ここらへんもいいかも。)




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こんばんもブゥーズをききながら

リズム が 鼓動する
リズム が 喜怒する
リズム が 合わせる
リズム が はだける

三弦 三振 お琴に ぷ
コンガ、ボンゴ、dらむ、の ポ
猫のおでこに しゃかりき ピ
ハンド トゥー ハンクラップ 
パンパン パパ パンパーン

腕立て百回
ペットボトルが揺れる
ブラジル女が浴衣着る
岡山 アノ子が
いすに揺られて居眠る

まるでちっちゃなどんぐりが床におち
転がるみたいに
からだが赤らむ
雨上がりな茶色い曇天に
リズム が すまして ホラ
聞こえた 
ふゆーと流れる
水面のアノ子は
椅子に腰掛け
劇場メロンをほうばった

悲しい画鋲を
思い出深げに眺めるアノ子は
クリーム片手に
ママの時間

ひたいを掻き掻き
お腹をたたき タンタン タタ ターン
ん? リズムをのせて
ゲリ青ざめる 腕がゆれ


手が震える
足が
なんびとも垂れ流すよな

じっと椅子にこしかけ
寒さの時間を待つ
恐らく今の私にはなんの期待もできないだろ
毛布にくるまり
ピアノブルースに酔いしれる

さて乾杯といこうか
夜半すぎの日曜日
Ball and Chain へ行きたいな
King of Blues
MIZU みず ミズ
今日はお水で 乾杯 
ピアノ ぶぅーずに酔いしれたいんだ  きょう お、わ、り 杯