スコットウォーカー スリッツ ダブ

ジャガタラ、いいとこどりのビート。



https://www.youtube.com/watch?v=7Ifw8JhDBvs

https://www.youtube.com/watch?v=Wg5PZtSTTN4


http://www.geocities.jp/hakutoshu/processlogcontents
哲学における言語の限界を自覚して、「哲学とは、言語の限定性(limitations of language)によって宇宙の無限性を表現しようとする試みである」(ESP. 14)
「特殊なアクチュアリティはまた、その初期の意味表示の様態から抽象されうることもあるし、そのような場合、経験の後期相ではそれはむきだしの『それ』として抱懐される。」(AI.254:

このような経験は、いかにアクチュアルなものの経験であったとしても、通常の人間的経験が含む美的・情緒的・価値的な経験を捨象した空疎で特殊な経験である。そこに無価値で無意味な虚ろな相貌をあらわにしたこの不気味な「むきだしの『それ』」という経験は、直接経験の情緒的な意味や美的な価値に満ち満ちた世界の空疎で虚無的な抽象化によって生起する経験の意識的な後続相である。本来、直接経験とは、そのような抽象化以前の、情緒的な気配や美的な価値や意味や畏怖や希求や期待を濃厚にまとった、ひしひしと身に迫る親しさと、杳として測りしれない奥行きとをもった持続する事実の経験なのである。

直接経験が、情緒的な意味に満ちた頑固な事実の経験であるということを示したのが、ホワイトヘッドの「象徴作用論」だった。


無常の時間の経過という知覚から「すべては虚しい」というニヒリスティックな帰結を導く実存的な洞察に対して、時間の経過の中ですべてのものに意味があるという洞察を導き、創造的世界の創造的な焦点として「今、ここ」を意味づけるという重要な意義を有している。
同様の実存哲学的な洞察は、例えばベルジャーエフの次の言葉にも見られる。
「・・・・・・すなわち二つの過去がある訳である。かつて存在し、消滅してしまった過去と、いまもわれわれにとって、われわれの現在の成分として、存在する過去である。現在の記憶の中に生きつづける過去は全く別の過去、変形され明化された過去である。われわれはこれに創造作用を加えたのであり、この創造作用の後にはじめてそれはわれわれの現在の中にはいったのである。回想は過去のたんなる保存でも再建でもなく、つねに一個の新しい過去、変貌せしめられた過去である。」(ベルジャーエフ『孤独と愛と社会』氷上英広訳)
二つの過去の相異は、ホワイトヘッドの用語に照らして言えば、現前的直接性における時間の経過の知覚と、因果的効果における過去から現在、現在から未来への関連の知覚との二つの知覚様態に相当する。ベルジャーエフの言う現在の創造作用は、両者を重ね合わせる象徴的関連づけにおいて世界を新たに意味づける生き生きとした経験とも解釈できるであろう。
これは、観想的な思弁家の抽象的な推論ではなく、詩人のヴィジョンであるといえよう。ホワイトヘッドの思弁哲学は、この詩人的なヴィジョンに整合的・論理的に体系化された表現を与えることを意図していた。
ホワイトヘッドは、このように直接的な事実性だけでなく興趣や哀感といった情緒的な意味づけをも含んだ世界開示が、思慮分別や概念的分析が介入する以前の、現実世界の直接的な経験であるとしている。
「こうして、象徴的関連づけが行われた結果、現実世界は実際にわれわれにそう見えるところの世界となる。その世界は、感じや情緒、満足、行動などを産み出すような、われわれの経験における所与としての世界であり、また最終的に、われわれの心性(mentality)がその概念的分析をもって介入してくる場合には、意識的な認知の主題となるものとしての世界である。」(S. 18-19)

「知覚された事実が、僕らの経験において意識以前的に意味経験へと指示されているということである。そこでは、流動する世界は、恒常的な世界に触れる。」
有機体の哲学は、時間的なるものの経過のなかに、永続への希求と、それに対する応答とを見るような視座をもっている。
言い換えれば、これは、時間の経過を実感する「今、ここ」の経験が、永続するもののうちで成立しているという洞察である。ホワイトヘッドは次のように言う。
「経験は、永続するもの(what is everlasting)のうちでの一要素として、また宇宙の永続的な構成要素(the everlasting component of the universe)をみずからにおいて体現するものとして、それ自身を実現する。この獲得は、必ずしも意識を含んではいない。それはまた、高められた主体的強調を含んでいる。この契機には、その主体的経験に関するかぎり、細部が少なくなり、全体的なるものが多くなる。この広大さの感じは、恒常性を高めつつ、盲目的な興趣(blind zest)というかたちをとるのであり、この興趣は、主体的強調の過剰によって自滅することもある。」(PR. 163)

この原初的な全的経験を、理念的に対立する二つの要素に分析し、整合的な宇宙論体系を構築してきた。伝統的に、こうした実在解釈は、二世界論と呼ばれてきた。
ホワイトヘッドもまた、こうした二世界論的な解釈に言及している。

論文「不死性」においては、「不死性」と、その対義語「可死性」とは、恒常性と流動性という宇宙の二側面に関わっていると述べられている。この両世界は、お互いを必要とし、相まって具体的な世界を構成しているとホワイトヘッドは言う。可死的なもの、死すべき者たちの世界は、活動の世界、創造的世界である。それは、「今、ここ」を焦点として、過去的なものを引き受け、新しいものを創造していく時間的なるものの世界、多なるものの世界である。
一方、ホワイトヘッドは、この流動的世界の事実性だけでは、世界の創造活動は意味をもたないとする。事実の世界は、来たっては過ぎ去る時間的世界である。価値・意味の世界は、時間を超えて永続する世界、不死の世界である。この両世界は、互いに相手を必要とし、前提とし、補完しあう。いずれの世界も、それだけでは、宇宙全体からの抽象である。世界には、それが不滅のものであるという側面と、絶えず消え去っていくという側面とがある。象徴的関連づけは、この両世界を知覚するそれぞれの知覚様態が、想像的に融合するという、意識以前的な経験の様態である。経験における両世界の感じの融合ないしは結合という事態は、物的抱握と概念的抱握との混成的な抱握が成立するプロセスを論究する抱握理論においても主題となっている。論文「不死性」に至るまでの有機体の哲学の課題は、経験におけるこの融合を主題としつつ、価値の世界、意味の世界をその抽象においてではなく、創造的に前進する時間的世界の具体的でアクチュルな経験の契機において考察することであったといえる。同論文では次のように言われている。
「<創造>は<価値>をめざし、一方、<価値>は、それが<創造>のプロセスに与える衝撃によって、抽象の空しさから救われる。だが、この融合において、<価値>はあくまでもその<不死性>を保持するのである。創造的行為はいかなる意味において不死性を<価値>から抽き出すか。それが本論の論題である。」(ESP. 81-82)
価値を実現するということが、生命の本質である。
そして、価値の実現は、ただ時間的世界の活動性だけによるのではない。
それだけでは、単なる流転の世界しか生起しないであろう。
意味、価値、永続するもの、恒常性、不死性などをすべて否定することは、現代の特徴となっている。しかし、時間的なもの、単なる事実、新たに生まれるということ、死に行くということ、これらはすべて、強度の差はあれ価値の実現であり、価値的・意味的なものの経験は、永続するものの一要素として自らを時間的世界のうちに見出すところに成立する。
僕らの直接経験においては、「<価値>は<事実>を指示し、<事実>は<価値>を指示する」(ESP. 80)のであり、僕らの経験する宇宙は、互いに指示しあう両世界の「今、ここ」での融合において開かれているのである。
原初的には全的でひとつである経験を、意識的分析においてふたつの世界へと分離することは、高度な抽象化である。世界をただ時間的なものとしてのみ見ること、あるいはただ永遠の相の下にのみ見ることは、いずれも、抽象である。二つの世界を分離して見るのではなく、「<宇宙>の本質的一体化(essential union of the Universe)」(ESP. 90)において不二のものと見るという経験が、たえず概念的分析がそこへと立ち返るべき考究の出立点である。

 
 *
ヒリヒリと痛む肉体の
産まれた赤子の泣く声が
車内の心のなかを谺する
右半身がこわばり
つり革を固く掴み
マスクする顔の
窓の外には
中合わせに居合わせた
彼女の視線が
ゆったり揺れ動き
散開し
一度、その視界が
消え失せた
homeの列車が
二度、発進した
あぁ産まれた赤子の
あの泣くときのこと
今のわたしの病苦と
似た世に産まされた
肉の阿鼻ではないか
完全に受身状態である
今の私にはそれが一番
ふさわしいのだと
あのとき
誰も見ることのない
視線が三度
窓を流れた


 視線の揺らぎ
赤子の初泣きとはまるではじめて苦をおもいしったときのようだ/それはまるで昨日のことのようで/苦肉とは/そうして生き初めることを/からだが二度教えてくれるようだ/ひとたび/ふたたび/みたび/よたび


 科白
心に宿す邂逅が言葉にならないで/「よむ」としたなら/それが一番の/詩ではないのか
或いは/心に宿した邂逅を言葉にして「よもう」とするなら/これも/詩であるのだろう
しかし/心に宿した邂逅を言葉にして「よんだ」あとでは/それはもう/詩ではないのではないか


 雑感

 言葉が明瞭であることはわたしにとって書くことのひとつの喜びであり、詩においてそれは詩情とさへ思えてくる。この明瞭であるということの本意はおおよそ、ワカラナイことがワカルということ。ワカル筈のことだったことがワカラナクナッタ状態(不明瞭に向かう)という不快さとも対置させていく。
 そして、明瞭であるとは吾性の 無頼の思想(、モノフォニックなthought,idea,)から抽出されたものがより確固としたものであるか否か?、そうした測り基準にさへなるメリットであるとは確かであろう。
 明瞭であることにより、読む人の心に強く焼き付けられる。構成された言語群がいかなる中身であろうとも、枠づけされ形式化され、作化され、カタチづくられているそのひとつの言葉体系が、明瞭であることは他者との共感共有だけでない・・・・、なによりもまして何者にも侵されないで外部や他者からの風化や侵食、社会的遜色にも耐えうる「すべ」を保持しているように思える。
 そしてそのうえで、ある人が思慮し言葉に残すということは読む書くという行為のなかにあるわたしではない、あらゆる「他者の行為」が介在している。しかも他者とも呼べないような、まったくはっきりとしないボワッとした何ものかが津々浦々介在している。
 人間の記憶や言葉化された我々共通言語すべて介在しているのは勿論のことであるが、そして言葉が明瞭であるとは、そうしたあらゆる介入者を存在者としてよりはっきりと具現化されていっているようにも思える。立ちはだかっている。 読む、書く、という言葉行為や活動には読者や書き手以外のナニモノ(何物、何者)かが、その所作内部の至るところで、動作し、逍遙し振る舞い蠢いている。明瞭であることはそれらをもう一度明瞭に顕に著することである。

だがこの誰でもない誰か?、何ものでもない何か?、それらはいったい何なのか?、どうして書く者や読む者以外や言葉を授受する者以外がそこにありありと存在するのか?。
 言葉で構成されたものに介在するすべてのもの。(登場する「人・物」だけではない。)すべての、模擬化された存在すべての、記号化された存在すべての、対象が、万象が、社会が、自然が、人間が、そしてわたし(ら)にはなんら想像の及ばない「全有」においてさへ、そうして書く、そこで読む、ということである。それが読むということである。

 ある人は「それを神様(詩神)」と呼んだかもしれない。しかし「それをそれ」として置けない、枠内に嵌め込み、有るモノとして対象物化したり(分節化したり、意味化したり、切り取ったり)することができない。増してや絶対化や相対化や関係化することもできない、つまりそうした論にも法にもかからないところの何ものかを
掴む(読む)そして拾う(書く)という言葉のそうした行為である。
 それはわたしが思うに、あらゆる思考産物や芸術作物や、人間の手によってさへも「かからない」次元の≒無知で未曾有な、つまり「全有」において「包握する」ことである。 それが「詩を読む」ということではないか。
 詩を読むなかにはつまり全有のなかにおいて、詩は書かれていくということである。




  ***

「あっ落ちてる。」

人間の使った道具や機械、肥料のビニール袋ひとつ、錆びたトタン板ひとつ、壊れた⊂回 鍵ひとつ

「あっ落ちてる。」

砂浜に落ちている貝殻や、いっぷう変わった色形した河原の石ころを拾うように
「あっ落ちてる。」

人間の用途から離れたゴミ 地上に落ちているそんなものを探し拾っていた子ども経験が こうした写真展示となったようだ

父の存外なる絵画作物
その残骸の足場にて
掘り沈める
人工物 → 廃物 → 自然物
産まれ生き渡世 死ぬる人・在の業

That Dad digs inword
Out of its picture
Birth Livin Dead



https://m.youtube.com/watch?v=omoH618fmgQ
https://m.youtube.com/watch?v=Cn7oQafVfGY

https://scontent-nrt1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/fr/cp0/e15/q65/36088333_1809328295813613_8328623155304202240_o.jpg?

オイコノミア
エコノミー
マチェール
ファクトゥーラ
ヴァルール
Verve(ヴァルーブ)…あぁいい一語だなその言葉もはじめて教えてくれたのも絵師だった。『バルール(Valeur)だけで描いてはダメです。ヴァルーブ(Verve)を線に込めなさい』
Valeur―色彩の相対的な濃淡、明暗 Verve―-芸術作品や行動に現れた気迫、情熱、活気


咲かす群生が
灰色な雲が
ぐるぐると
人びとをとり囲む
生垣に浮かぶ
死んだ男の眼鏡が
軒下から
水泥の底を
吹き上げる
身に覚えのない
流れる血筋の
彼岸の蕗は
伸び上がった、まま
そして 自然がぐるりに
おれにてんで見覚えの無いのはなぜだらう
渡の橋桁に沈む
あるろうとなく
名もない家家の
土台には、蟋蟀の
影が、立ち上る
戸口には表札はなく、段丘に林立する家家には、深々と根を張る人びとの名前が存在する


泥靴をはきコーヒー缶を口にし、枝葉が塞き止められた泥まみれのコーナーを曲がり、車の通れぬ狭い路地を入っていく


たどり着いた玄関のポストには、ふと一通のメモ書きが入っていた、走り書きされた苦情を読みながら、

慌てて屋根を覗くと、家のアンテナが右隣の家の屋根やたれかかり、家に引き込む電線にも触れていた

あなたのことが好きです、長長と走り書きされた苦情の手紙のなかに、無礼をわびてか、唐突な一言が添えられていた

疲れ果てた身体を投げ出し、わたしは名もない、Blind Boy レイニーブルーズ 1935‐1948、を聞きながら、ばらくその手紙を眺めていた


反対の隣家からは、いつもの調子で嘔吐している、悪い咳をした男の様子が、壁越しに聞きながら

「大丈夫ですか?」と、なんとなしに心配しながら、わたしは煙草を吹かし、胸をあわせていた、

あと、そう、そう、裏庭の向かい側の隣家では、張り手と罵声がよく聞こえるのたが、最近はまるで嵐の過ぎたあとようで、物静かだ

継親の老介護者は、言葉が喋れず、「あ〜、う〜」と呻き声しか上げられず、血の繋がらない子にに折檻される、いつもされるがままである


苦情をポスティングした隣のおばさんは、挨拶を数える程度しかしない、時折休みの昼間には子どもと愛犬を連れてきてワンワン大声で怒鳴ったり泣かせている

回覧板を持っていけば、戸口を叩いても居留守か留守かまるで返事もなく、(名前のない)銀色のポストに回覧通知を入れていたりするのだが


しばらくはその苦情の手紙を眺めながら、煙草をゆい、乾いたレイニーブルーズを聞きながら、便所で嘔吐する男の醜い咳を聞きながら、仕方なく重い腰をあげた


人びとの寝静まった夜に、脚立を屋根に上げ、長く錆びついたアンテナを静かに解体した
まるで広い草原に転がっている獣の骨のような、まったく生活に要らないアンテナを、ドライバーで静かに解体した


秋の音(ね)の蟋蟀が、家家の屋根の隙間から、恋歌のごとく立ち上っていた
包帯のように巻かれた厚手の雲がどんよりと流れ、屋根の下に沈んだ人びとの、寝息を吸い上げていた


 ミューズよ御覧なさい
 我々のうたう雨は
 あなた方の
 歌ではない
 蒸発する人びとの、
 紙の上の名前たちの
 そのそばで
 聞き耳を立てて
 よく御覧なさい
 地を這う人びとの
 家家の土台に隠れた
 人びとの
 蟋蟀のさえずる
 家家の戸口の
 深々と溝をあけた
 根を張る名もない歌を
 聞いてごらんなさい
 ミューズよ
  ミューズよ
  レイニーブルー
  Blind Boy


天上の雲のきれから、僅かな小雨が、林立する家家の屋根に落ちている
解体した重い部品は屋根に放置したまま、わたしはその夜、部屋に戻り






渡の橋桁に沈む、あるろうとなく、名もない家家の土台には、蟋蟀の影が、立ち上る

戸口には表札はなく、段丘に林立する家家には、深々と根を張る人びとの名前が存在する


泥靴をはきコーヒー缶を口にし、泥まみれのコーナーポストを曲がり、車の通れぬ狭い路地を、


たどり着いた玄関のポストに、ふと一通のメモ書きが入っていた、走り書きされた苦情を読み、

慌てて屋根を覗くと
家のアンテナが隣家の屋根や電線にもたれかかっていた、

あなたのことが好きです、長長と走り書きされた苦情の手紙に、無礼をわびてか、唐突にそんな一言が添えられている

わたしは名もないレイニーブルーズ Blind Boy をかけながら、その手紙を破り捨てた

もうひとつ反対の、隣家から聞こえる、毎夜毎夜便所で嘔吐しながら男の咳こむ声を聞きながら、

わたしは遠い壁越しで「大丈夫ですか?」と煙草を吹かしながら、詰まる胸をあわせた、

あと、そう、そう、裏庭の向かい側の隣家では、張り手と罵声がよく聞こえるが、今日はまるで嵐の過ぎたあとようだ

息子に折檻されながら、継親の痴呆の老介護者は、言葉が喋れず、「あ〜、う〜」と呻き声を出すが、されるがままである


あったこともない隣のおばさんは、時折休みの昼間に子どもと愛犬を連れてきてはしゃいだりしている

わたしは回覧板を持っていくと、戸口を叩いても居留守か留守か返事もなく(名前のない)銀色のポストに入れていた


しばらくはその苦情の手紙を眺めながら、煙草をゆい、乾いたレイニーブルーズを聞きながら、便所で嘔吐する男の悪い咳を聞きながら、仕方なく重い腰をあげた

寝静まる深夜、脚立を屋根に上げ、2、3メートルもの長い錆びついたアンテナを静かに解体した、
まるで広い草原に転がった獣の骨のようなアンテナを、立てる気力も体力もなく、静かに解体した

秋の音(ね)の蟋蟀が、家家の屋根の、尾根の隙間から、恋歌のごとく立ち上っていた
包帯のような厚手の雲を空より見上げた、屋根の下に沈む人びとの寝息を、吸い上げていた

ミューズよ御覧なさい
我々のうたっている
蒸発する人びとの、
戸籍上の紙製の名前を
地を這う人びとの声を
家家の土台に隠れた
虫たちのさえずりを
深々と根を張る家家に
そば耳を立てて
よく聞いてごらんなさい ミューズよ



ミューズよ御覧なさい
我々のうたっている
蒸発する人びとの、
戸籍上の紙製の名前を
地を這う人びとの声を
家家の土台に隠れた

https://www.youtube.com/watch?v=Ss1KpYix0ps&app=desktop

https://www.youtube.com/watch?v=qclTGuX31eY&app=desktop


Livin’Suicide 



   髓狂

炸裂した色づく陰が外耳に掠める 継投する猯にまみれる一度の洪水
シャボリだし 搾りだし 気管支が裏返る 吐き出す くもくもく も く
雲は湧くてかわんさかあふれいで あぶくな店(タナ)から書き咽ぶ
暗躍と沈黙の音の酌量をひねり ひれ伏し倒されるふぃと
清んだ空気の川へりに 捜していたあの馬二頭が 浮かんでいる



   あきよし

人間のキれギレな雲原に足を取られた はじまりから閉じられるまでのあいだ 生まれ出たあとである以上、試されている
溜め息きが台地を吹かし、涙が固まる液状の、乳頭を洞で撫で下ろし、海山をさ迷い、俺はいまだに拭けないのだ
霊媒風洞にて、くもくもくと、わんさとあふれ消えて行く、虚覚えな流転の暦を、あなたの鏡で覗きこむ、───────