スコットウォーカー スリッツ ダブ

ジャガタラ、いいとこどりのビート。



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哲学における言語の限界を自覚して、「哲学とは、言語の限定性(limitations of language)によって宇宙の無限性を表現しようとする試みである」(ESP. 14)
「特殊なアクチュアリティはまた、その初期の意味表示の様態から抽象されうることもあるし、そのような場合、経験の後期相ではそれはむきだしの『それ』として抱懐される。」(AI.254:

このような経験は、いかにアクチュアルなものの経験であったとしても、通常の人間的経験が含む美的・情緒的・価値的な経験を捨象した空疎で特殊な経験である。そこに無価値で無意味な虚ろな相貌をあらわにしたこの不気味な「むきだしの『それ』」という経験は、直接経験の情緒的な意味や美的な価値に満ち満ちた世界の空疎で虚無的な抽象化によって生起する経験の意識的な後続相である。本来、直接経験とは、そのような抽象化以前の、情緒的な気配や美的な価値や意味や畏怖や希求や期待を濃厚にまとった、ひしひしと身に迫る親しさと、杳として測りしれない奥行きとをもった持続する事実の経験なのである。

直接経験が、情緒的な意味に満ちた頑固な事実の経験であるということを示したのが、ホワイトヘッドの「象徴作用論」だった。


無常の時間の経過という知覚から「すべては虚しい」というニヒリスティックな帰結を導く実存的な洞察に対して、時間の経過の中ですべてのものに意味があるという洞察を導き、創造的世界の創造的な焦点として「今、ここ」を意味づけるという重要な意義を有している。
同様の実存哲学的な洞察は、例えばベルジャーエフの次の言葉にも見られる。
「・・・・・・すなわち二つの過去がある訳である。かつて存在し、消滅してしまった過去と、いまもわれわれにとって、われわれの現在の成分として、存在する過去である。現在の記憶の中に生きつづける過去は全く別の過去、変形され明化された過去である。われわれはこれに創造作用を加えたのであり、この創造作用の後にはじめてそれはわれわれの現在の中にはいったのである。回想は過去のたんなる保存でも再建でもなく、つねに一個の新しい過去、変貌せしめられた過去である。」(ベルジャーエフ『孤独と愛と社会』氷上英広訳)
二つの過去の相異は、ホワイトヘッドの用語に照らして言えば、現前的直接性における時間の経過の知覚と、因果的効果における過去から現在、現在から未来への関連の知覚との二つの知覚様態に相当する。ベルジャーエフの言う現在の創造作用は、両者を重ね合わせる象徴的関連づけにおいて世界を新たに意味づける生き生きとした経験とも解釈できるであろう。
これは、観想的な思弁家の抽象的な推論ではなく、詩人のヴィジョンであるといえよう。ホワイトヘッドの思弁哲学は、この詩人的なヴィジョンに整合的・論理的に体系化された表現を与えることを意図していた。
ホワイトヘッドは、このように直接的な事実性だけでなく興趣や哀感といった情緒的な意味づけをも含んだ世界開示が、思慮分別や概念的分析が介入する以前の、現実世界の直接的な経験であるとしている。
「こうして、象徴的関連づけが行われた結果、現実世界は実際にわれわれにそう見えるところの世界となる。その世界は、感じや情緒、満足、行動などを産み出すような、われわれの経験における所与としての世界であり、また最終的に、われわれの心性(mentality)がその概念的分析をもって介入してくる場合には、意識的な認知の主題となるものとしての世界である。」(S. 18-19)

「知覚された事実が、僕らの経験において意識以前的に意味経験へと指示されているということである。そこでは、流動する世界は、恒常的な世界に触れる。」
有機体の哲学は、時間的なるものの経過のなかに、永続への希求と、それに対する応答とを見るような視座をもっている。
言い換えれば、これは、時間の経過を実感する「今、ここ」の経験が、永続するもののうちで成立しているという洞察である。ホワイトヘッドは次のように言う。
「経験は、永続するもの(what is everlasting)のうちでの一要素として、また宇宙の永続的な構成要素(the everlasting component of the universe)をみずからにおいて体現するものとして、それ自身を実現する。この獲得は、必ずしも意識を含んではいない。それはまた、高められた主体的強調を含んでいる。この契機には、その主体的経験に関するかぎり、細部が少なくなり、全体的なるものが多くなる。この広大さの感じは、恒常性を高めつつ、盲目的な興趣(blind zest)というかたちをとるのであり、この興趣は、主体的強調の過剰によって自滅することもある。」(PR. 163)

この原初的な全的経験を、理念的に対立する二つの要素に分析し、整合的な宇宙論体系を構築してきた。伝統的に、こうした実在解釈は、二世界論と呼ばれてきた。
ホワイトヘッドもまた、こうした二世界論的な解釈に言及している。

論文「不死性」においては、「不死性」と、その対義語「可死性」とは、恒常性と流動性という宇宙の二側面に関わっていると述べられている。この両世界は、お互いを必要とし、相まって具体的な世界を構成しているとホワイトヘッドは言う。可死的なもの、死すべき者たちの世界は、活動の世界、創造的世界である。それは、「今、ここ」を焦点として、過去的なものを引き受け、新しいものを創造していく時間的なるものの世界、多なるものの世界である。
一方、ホワイトヘッドは、この流動的世界の事実性だけでは、世界の創造活動は意味をもたないとする。事実の世界は、来たっては過ぎ去る時間的世界である。価値・意味の世界は、時間を超えて永続する世界、不死の世界である。この両世界は、互いに相手を必要とし、前提とし、補完しあう。いずれの世界も、それだけでは、宇宙全体からの抽象である。世界には、それが不滅のものであるという側面と、絶えず消え去っていくという側面とがある。象徴的関連づけは、この両世界を知覚するそれぞれの知覚様態が、想像的に融合するという、意識以前的な経験の様態である。経験における両世界の感じの融合ないしは結合という事態は、物的抱握と概念的抱握との混成的な抱握が成立するプロセスを論究する抱握理論においても主題となっている。論文「不死性」に至るまでの有機体の哲学の課題は、経験におけるこの融合を主題としつつ、価値の世界、意味の世界をその抽象においてではなく、創造的に前進する時間的世界の具体的でアクチュルな経験の契機において考察することであったといえる。同論文では次のように言われている。
「<創造>は<価値>をめざし、一方、<価値>は、それが<創造>のプロセスに与える衝撃によって、抽象の空しさから救われる。だが、この融合において、<価値>はあくまでもその<不死性>を保持するのである。創造的行為はいかなる意味において不死性を<価値>から抽き出すか。それが本論の論題である。」(ESP. 81-82)
価値を実現するということが、生命の本質である。
そして、価値の実現は、ただ時間的世界の活動性だけによるのではない。
それだけでは、単なる流転の世界しか生起しないであろう。
意味、価値、永続するもの、恒常性、不死性などをすべて否定することは、現代の特徴となっている。しかし、時間的なもの、単なる事実、新たに生まれるということ、死に行くということ、これらはすべて、強度の差はあれ価値の実現であり、価値的・意味的なものの経験は、永続するものの一要素として自らを時間的世界のうちに見出すところに成立する。
僕らの直接経験においては、「<価値>は<事実>を指示し、<事実>は<価値>を指示する」(ESP. 80)のであり、僕らの経験する宇宙は、互いに指示しあう両世界の「今、ここ」での融合において開かれているのである。
原初的には全的でひとつである経験を、意識的分析においてふたつの世界へと分離することは、高度な抽象化である。世界をただ時間的なものとしてのみ見ること、あるいはただ永遠の相の下にのみ見ることは、いずれも、抽象である。二つの世界を分離して見るのではなく、「<宇宙>の本質的一体化(essential union of the Universe)」(ESP. 90)において不二のものと見るという経験が、たえず概念的分析がそこへと立ち返るべき考究の出立点である。