絵を鏡に映して眺めてみるとある疑問にぶつかったことがある。鏡像は左右対称にはなるが上下逆さにはならない。それは何故だろうか?、と。

左右対称の文字

  中田幸

   中
   田
   幸
      
を鏡に映すと

  幸田中

   中
   田
   幸

となる。上下に反転はしないその理由は、ネットで調べれば簡単な説明を知識で得ることができるが、

ある問題を立て実際やってみて、自分で想像力を働かせていく。
人間や動物は地上面を足につけ前後左右に歩いて移動している生き物だが。魚や鳥や尺取り虫はどうだろうか?、なぜ多くの動物は2つの眼は『地上と平行』であるのか?、蜘蛛や羽虫らはなぜあんなにたくさんの眼を持っているのか?、
ゆくゆくは、形而上哲学にある『重力』とも関連づけて考えてみる。こうした、思考を幾度となく巡らせてみる、

読ませてもらい、科学や言語学やどこぞの専門用語を出してはさもありげな譬喩に仕立てたこの貧相なメモ書きを眺めながら、わたしが思ったことは、詩文を読むことの魅力や喜びがない。事典や、客観的な一語から予先を掴みイメージを広げ膨らませ書いてみても、それ以前に、詩文の魅力があまりに乏しい。
個人の頭のイメージや現象を説明書きしているにすぎず、詩の文体を得るに至っていないのだろうと、

・言葉の調べを聴く、
・語の悟性を感得する、
・人や世界の内外を観る
・   像 姿 容
・─────────
・─────────
・─────────

フレームワークなどと言っているが、さてこのフレームワークとはいったいどんな書きを言っているのか、その深慮する本意を詩作者から伺いたいものである。
抽象的表現は絵画でも百年以上いやもっと前からあるが、

さて気になるのは、(詩学でも光学や数学でも、議論される)『位相』という一語について、この詩で書かれているだけに作者なりに何か抱く念。シンボライズされているその一語に、ついて、作者は独自の見識をthought,を深慮しながら?、詩に書かれたものか、それはどんなものか聞いてみたいものだが、期待するだけ野暮かもしれない。
レスにはそんな気立てもなく、無自覚なまま、つまりは外部の『事典』から取ってきて詩にくっ付けているだけなのかな?、と
ならば、まぁ、なぞなぞ遊び なんだろう。( あるレッサーさんの発言におおいに納得した。)

コタエを求め、知識や説明書きで、頭でっかちになって『世界を読みとく』よりも、詩や文学と関わるならば、【人の、人間の、自身の『心にこだまする何か』を聴く、読む、書き留める、】そうした場所からはじめていって欲しい気がする。わたしは日記でそれをやっている。
詩よりも先ずは、日記からはじめていくべきでは。
わたしのレスもほとんどが日記である。