戦争と平和について、一人の人間としての意見

人間の諸行の普遍的課題、最も大きな、そして最も恐ろしい行為に戦争という集団殺戮がある。

人間の長い長い歴史に蔓延るその愚行を、この先なんとか阻止すべく、叡智を集め、法として構築してきた努力。“その過程において”日本の憲法もそのひとつの成果で“あるにちがいない”。

だがこの平和憲法を 単なる理想や認識や概念だけに留めおくだけでは、我慢がならず、少なからず平和憲法自体に異議を唱える者も数多くいる。日本の現在の政権を政る人々もその筆頭である。「切迫する世界情勢に照らし、自国戦力を他の大国同様にまで押し上げること、そして有事から身を守ること。これにより自国の平和が保たれる。」こうした論調が盛んに繰り返された。そしてこれまでの平和的政策、平和基盤の政治が少しずつ切り崩されてきている。逆を言えば世界に展開する戦争システムに躊躇うことなく加担できる国内法の整備、秩序、言論の後押しが整備されつつあること。世界的秩序の昨今の異様な情勢とその奇縁に乗っかり、国の方針に多くの国民も同調している。これは、今の政権の人々がずっと待ち臨んできたこと、ずっと待ち望んでいたことだった。

ここ2年、3年の間に大きく変わった。

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戦争という現実を拒絶することができるには、人類の知恵がまだまだ足りないのかもしれない。長い道のりが要る。20世紀にしてあれほどの悲劇が物語ってきたことを、今世紀もいまだ、地上のどこかで絶えず繰りひろげられているなかで、非戦外交の土台が既存の平和認識ではまだまだ弱いのだと。まだまだ磐石ではないのだと。

世界人類が戦争を起こさせないための持続可能なブログラムと実行とをどう為していくことができるのか?。その不断の努力。具体的に着実にその道を拓き求めていくこと。

万人が追究するに値するその主旨を、しかしいったい誰が嫌悪するだろうか?、いったい誰がそうした課題に背き否定的な促しをするものなのだろうか。……戦争をしたがっている人間ならともかく…。

少なからず私たちは国家帰属だけではない多種多様な集団や社会的枠組み。各々に持って生まれた環境を有する人間は当然のこととしてある。しかし誰しも戦争という現実に健忘になっているわけではない。

戦争と対峙させるべくして平和という概念がこれからも通用するか、今一度その危うさを再認識せざるおえないでいる。
つまり、
時事ネタを用い繰り広げられる現行憲法否定論の記事が後を断たないなか、以下の記事に触発され、たいへん興味深く読み、一方でやはり危機感を覚えた。

そうしたわけで、自分はこうした記事を綴っているわけである。

(携帯)http://trs00.mxcd.imodesearch.jp/?url=http%3A%2F%2Fasread.info%2Farchives%2F640&kw=%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E%20%E5%95%8F%E9%A1%8C%E7%82%B9&guid=on

(PC)
http://asread.info/archives/640
9条否定論者が唱える多くは時事情勢を現実として捉える。社会に組み入れられる私たちの存在の有り体はしかし、そればりでなく、それだけを判断材料にはしない。それだけが脳ではないのだ。その範疇のみで先々を推し量ろうとするばかりで、個々の社会生活の水準や環境も疎外させ、国際ビジョンも、国内ビジョンも、これは単に国家的帰属社会におけるイデオロギー体系に沿うなかでしか拡げられず、近隣地勢の俯瞰から、現行憲法を是々非々し云々している。だがそうした視野のなかでしか展開できない。そのような手狭な範疇で憲法問題は済ませられないことに、私は気がきでない。何か大切な物事が不足している。

9条ひとつとっても、過去現在未来においてもう二度と同じアヤマチを繰り返さないこと、そしてその人類が抱える普遍的課題を、代理として私たちが約束を果たし、示していこうとすること。これは今の政治の解する平和概念のイデオロギー体系には相容れないのは水と油ほどに明瞭である。今の政治では関われない事柄を日本国民すべての人々に付託されていることを忘れないでおきたい。今の政治、今の彼らがその事をはっきり自覚すべきであろう。そしてこれからより一層の不断の努力。その真価が試されている時期なのかもしれない。きっと他人事ではない。私たちが手にしている日本の憲法のエッセンスをより一度、より良いものとすることは、21世紀の人類的課題として求められていることである、しかもそうした方向にこの条文が世界で全うに機能すること。その具体的な要求を、臨機に私たちは今、そうした時代に遭遇していると、考える。

これは今の政治や国家や対外情勢とは関係ない私たちの持つ個のモチベーションによって関わることできるツール。そしてそれを可能にするツールであるとみる。

ノーベル賞云々についての冷めた視点での論調姿勢。記事のなかにあるそうした内容については、ある程度同意もする。受賞という結果は吉にも凶にもなるし、護憲らが皆目同じように浮かれ気分になってしまえば盲目、あちらの権威に持っていかれることだろう。頭のいい入れ知恵のきいた人々、彼らは逆手に上手く利用することだってできる、知恵者だ。あり得るということだ。(日本政府はどこぞの省庁で水面下で誰にどのように上納すべきか献金の仕方に奔走していることだろう。)

稚拙な話に逸れてしまった、もっと大事な問題が私たちの目の前にある気がする。
(携帯)http://trs00.mxcd.imodesearch.jp/?url=http%3A%2F%2Fwww.jicl.jp%2Furabe%2Fbacknumber%2F20140901.html&kw=Peace%20%E8%AA%9E%E6%BA%90&guid=on
(PC)http://www.jicl.jp/urabe/backnumber/20140901.html
この記事は日本の平和憲法と世界の平和概念について新たな在り方を模索している現在を読む。平和がより広くより確かなものとなるには、これからも、学ぶべき指針が、まだまだあるように思う。
ここに転載されている国連ユネスコの英文記事をできることならしっかり読みたい。あぁ自分にもっと時間と余裕と能力があるなら、突っ込んで読みたい。