戦争について【映像挿入】、国家という幻想について【随想】


http://www.youtube.com/watch?v=nAn-60CKtUU&guid=&gl ← どんな編集であったとしても(BBC西側メディアのプロパガンダ映像)惨劇と地獄を人間に与えることが戦争というものなんだということを誰も否定できない。紛争も内乱も、、時間も場所も、スケールのラグでずらしたり、裏と表を用意したり、直接にはわからないようにしたり、間接的なあらゆる手段を挿入したり、あらゆる努力や画策をしたとしても、こうした実写をみてもわかるが、結局は人間を、集団、組織の相対立するどちらをも、集団殺戮に加わらせる世界を可能にしていくものたということ。。理性を持つ我々人間の為す長く存在している歴史的行為、いつまで続けていくつもりなのか、もうこんなことは御免だ。学んできたはずなのだが、しかし、まったく正反対の宿業を現実として臨む機運。
 日本が今、またしても積極的にその世界に強く関わることを、よしとしていく機運を、少なからず感じている。

 昔、横尾忠則がある時N.Y WTC崩壊の捏造映像を見て『こんな美しい映像はわたしは今まで見たことがなかった。』と台詞で言わせた、若松孝二の映画を昔観たことがあったが、その言動、よくもそんな言葉が吐けるものだ!!と、そっくりそのまま真に受け、その言葉に相当身震いしたことががあった。
 そうした文学的?狂気の狭間でタナトスなどがテーマとした、映画や小説や芸術など、あったとしても、その中に“括弧として”閉じておかなければとんでもない誤解を招くだろう。
 (ここで取り上げた2つの映像を視ているとバッグの流れる音楽にわたしにはとてつもない嫌悪感を抱いたが、これも言ってみれば同類に思う。心情のまやかしや誰しもが同意しないものについては、それをそれとして括弧にくくる分別能力を持っているのである。)


 現実の戦争について考えてみたとき、→ http://m.youtube.com/watch?v=CRJygAwMeV8 結局戦争とは、虚構と恐怖と隠匿とを現実世界につくりあげ、総ての人間をそこに追い込んでいく。そうすることによって戦争世界がつくりあげられていくことを 我々はもう知ってしまった。

 今地上で、ここ数年来世界の至るところで不穏な動きを時事ニュースなどで散見するが…、

 もしや?太陽が繰り返すサイクル、黒点やプロミネンスの異常発生のせいかしら? と、まるでオカルト作家アウトサイダーコリン・ウィルソンが言いそうな思いにかられてしまう昨今である。 フランス作家、A・カミュが、第二次大戦下時代 異邦人で、太陽が眩しいせいだった という台詞はどこから出てきたんだろうか?と、思い馳せることも最近しばしだ。(これも括弧に閉じる必要がある話である)

 天変地異と戦争とがまぜこぜにわからなくなり、いや、わからなくさせ、人類に“何か”をけしかけている“者たちが、(直接にその犯罪に手をつけなくても間接的にその手に引っ掛かる“利”を期待し)じっとその機を伺っているような人間が必ず居るということ。ここ数年ずっとそうした者(決して特定できない攻略やノウハウがあるにちがいない、わたしにはわからない。)そういう事を今すごく感じずにはおれないでいる。



 国家という存在について時々考えることがあるのだが、どうかすると国家を船に喩え、乗組員を国民に喩え、舵取りをするのが国の政治。と考えているようなきらいが我々には相当ある気がする。でもこれって……、なんだかおかしな話だ。と思う。 我々はひとつの船に乗って生きているわけでなく、多種多様な場で自らの生は、いろんなカテゴリーを供与し、生活も、社会も備わっているはずなのだが、こうした安易な一元で治まるものでは到底ない。誰しもわかる話ではないのか。 一艘一艘の船を浮かべるその気まぐれな水、私たち一人一人や私たちの持っているいくつものコミューンは1隻の船であろうものか。しかも自分(たち)の自由意志の舵を効かなくし、沖へ沖へか陸へ陸へか知らんが誘い込もうとする、どうやら国家とは、我々の乗るいろんな各々の船を予期せぬところへ連れていく。まるで水のようだ。そして実権を握る連中は見えない魔の手を淀んだ水に差し入れ、彼らお望みのある一定の方向に上手いこと流れをつくり、我々を誘導している。実感するところである。
 国家って何だろう?と想像したとき、やはりそういう理解の仕方がわたしにはとてもしっくりくるのである。