二段の長い記事

スイスの友人が以前載ったドイツの新聞記事を訳してくれました。みなさん、少し長いですが時間がある人は読んでください。

「最後の人間」
松村直登は福島のデッドゾーンにたった1人で住んでいる。この人物は狂っているのではない、彼には最もな理由があるのだ。
シュテファン クライン筆
富岡
松村氏は木から小枝を折った。葉を枝から払ったが、先に着いている数枚の葉は残した。この枝を地面の近くで円を描くように振り回し、サビと白の2匹の猫たち(見たままサビと白と呼ばれている)を誘う。猫たちは枝を追って転がり回り、松村は笑う。彼は動物達とうまくやっている。彼は今までずっと動物とうまくやってきたが、今は松村直登にはない人間社会の代わりになっている。
この人物は1件の家に1人で、町に1人で、そしてこの地域にたった1人で住んでいる。
彼には普段人とのコンタクトが無いが、この日は記者と通訳が彼を訪問し、いつもと違っていた。しかし、またすぐにさよならである。日本人には普通握手をする習慣はない。しかし松村はいつまでも握手をし続けていた。2年4ヶ月は世間と隔絶して過ごすときっと手を放したくなくなるのだろう。
2011年3月の福島第一原発の事故の後、この地域より人口の大流出があった。放射能に汚染されたくない人達には出て行く以外に選択肢はなかった。事故を起こした原発から12キロ離れた富岡の松村一家は最初の避難民の中には混ざってなかった。松村直登の80歳になる母親が、お願いだから避難はしたくない、もうそんなことには耐えられない、と言ったからだ。しかし数日後、さらに3回の爆発を経て松村一家は家を出た。これ以上リアクターが吹っ飛ぶ前に。

どんな説得も細工もどんな結末を描いてみせても無駄に終わった。松村は残った。
40キロ南のいわき市に父親の妹、松村直登の叔母がいた。彼女は予期せぬ訪問者を見た途端、驚愕した表情を浮かべた。彼女は彼らを汚染されている、放射能を家の中に持ち込むと見なし、彼女が世話をしている子供のために、彼らを決して家に入れようとしなかった。10分後には松村は再び路上にいた。彼らは避難所にも行ってみた。しかし、そこはもういっぱいで、逃避行にうんざりした一行は再び家に戻った。
何てことだろう。彼らは自発的にデッドゾーンに戻ったのである。
松村直登の兄弟姉妹がどれだけ大騒ぎをしたか想像できるだろうか。 電話での討論の後、彼は考えさせられた。兄弟達(2人の兄弟と1人の姉妹)は防護服と立ち入り禁止区域内に入るための特別許可証を手配した。兄弟達が全身真っ白、手袋と顔を覆うプラスチックのマスクをして家のチャイムを鳴らした時、松村直登は異なる世界から来た未知の生物のような姿の彼らを認識できなかった。
この遠征は半分だけ成功に終わった。松村直登の両親は子供達に救助され彼らと一緒に行った。しかし彼には何もできなかった。どんな説得も細工もどんな結末を描いてみせても無駄に終わった。松村は残った。
警戒区域への道中。いわきからは車で1時間くらい。山々、河川、海、福島は美しい。道路の左右に積み上げられた物体だけが醜悪で、何となく脅迫的に見える。汚染された土壌は捨てられる。それらは何万、何十万もの大きなビニール袋で、中には福島の地表から削ぎとったり、切り取ったり、かき集めたり、掘ったり、かきならしたりされた物で満たされている。葉っぱ、枝、雑草、地面の土そのものなどである。
これは除染と言われているが、汚染を除去するには役に立たない努力である。そのような汚染物質はどこにも行く当てがないために、道端に積み込まれ、それがまた草地の中に広がって行くのである。または黒い山として積み上げられる。
太平洋に面している富岡は紛れもなく1つの街だ。道路、家々、店があり、信号機はその役目を果たしている。街は原発災害の前に起こった地震津波によって被害を受けたのは明らかである。歪んだ屋根、壊れた間口、もう電車が走っていない駅のねじ曲がった柱に被害が見て取れる。線路には雑草が伸び放題である。
だが実際に不安な気持ちにさせるのは別のことである。実際に不穏なのは人がいないことである。学校に通う子供も、通行人も、買い物にくる人もいないのだ。車にガソリンを入れる人も、自分の家のカーテンを引く人も誰もいない。朝の8時半、普通の街では人々が職場へと急ぐ時間である。ここではそうした営みは何もない。富岡は死んだ街だ。誰も住んでいない、1人の例外を除いては。

松村直登の家は街の中心からかなり離れた場所にある。彼の家から少し上がった道端に、クレーン車とその横には白い大きなビニールのボールが置いてある。ここから杉、竹、桑の木が立ち並ぶ狭い小径を行くと窪地に出る。以前、まだ福島県がダメージを受けてない頃、ここは桑の木がいっぱいで、松村は米やタバコだけでなく、蚕も育てていた。4代に渡ってそのように生活していたが、5代目は違う道を選んだ。直登の本業は建設作業員である。
松村直登に対する最初の印象はその外見の良さだった。彼は健康的に日焼けして、活き活きとした目をしたたくましい男性だ。彼が笑うと目もよく笑っていて、事実松村氏はよく笑う。喫煙家のハスキーな笑い声だ。彼はかすれた声で警察との追いかけっこの話をした。原発から20キロ以内の地域に人は住んではいけないことになっていて、警察は彼を立ち退かせたかった。
1度警察は松村を逮捕して家から立ち退かせるために書類にサインさせようとした。「大丈夫だ」と松村は言った。「1枚だけじゃなく、何枚でも持って来い。」彼は全く意に介せず、警察はどうしたら良いのかわからず役場に助けを求めた。役場は遠くの街に移転していたので、警戒区域内に残りたい人物をどうこうする気もなく、最後にはこの頑固な男に滞在許可証を発行した。もし放射能汚染されたければどうぞご自由にというわけだ。

当局の目には松村はクレイジーに映るに違いない。彼は全くクレイジーなんかではない。真相はとてもシンプルである。飼い主から置いていかれた犬の絶望的な叫び、ニャーニャー鳴いてる猫への同情、お腹が空いて喉が渇いてる牛達の怒ったようなモーモー鳴く声に松村直登は心を動かされたのだ。富岡ではこの悲惨なコンサートが何度も繰り広げられていた。聴衆はたった1人。ただ1人の人間がこの声を止めるよう心を動かされたのだ。

パニックで慌てて出て行った人達の家は地震の影響でドアが閉まらないことが多かった。ほとんどの家で松村は簡単に出入りができた。餌はだいたい簡単に見つけることができたので、彼は餌やりをした。数匹の犬はこの人間が彼らを救うために来たことがわからず噛み付いてきた。しかし松村は続けた。あっという間に彼は60匹の犬と100匹近くの猫の保護者となった。

隣の大熊町のダチョウ園で以前は飼われていたが逃げ出したうちの2羽がやってきた。松村は2羽を路上で見つけ、捕まえた。次は牛だった。見捨てられた牛舎があり、松村の耳にまで叫びが届かなかった動物達は死んでしまった。しかし、何とか逃げ出してさまよっていた牛達は松村に保護された。他にも遠くに避難した人達から「私の牛達を世話してくれませんか?」と託された牛もいる。
松村は孤独の道を自ら選んだ。そして、水道水、電気、ゴミ回収のない三重苦の生活である。そして空気中の、何よりいつも裏山、畑などで育っていた彼の食糧の放射能セシウムの問題。もやし、家畜、ワラビ、豆、エンドウ、玉ねぎ、アスパラなど。これくらいのアスパラと松村は笑って腕を広げて見せた。そんなに野菜が成長するなんて大丈夫なんだろうかと考えてしまう。
彼は自分が放射能汚染されていることを知っている。おそらく最も汚染された人物だと。
彼の家のトイレではもはや水が流れないので、外で用を足す際に彼はセシウムを排泄していると思っている。彼は自分を被爆者だと見なしている。広島で放射能汚染された人を被爆者と呼ぶ。しかし彼は笑って言う。
彼は自分が福島でも最も放射能汚染されていると認識している。善意の人から勧められて行った検査で東京の医師が言ったように「チャンピオン」というくらい汚染されていると知っている。彼は自分の人生を動物達に賭けた、だがそれだけではない。この富岡の仙人は原子力が手に負えない怪物だと思っている人々のために生き証人になるつもりでいる。彼は常に備忘、記憶として残り、日本で原子力発電を運用している東電に対してとげになるのだ。
松村の家の居間では小さなテーブルの周りの床に直接座る。窓からはダチョウ達がたった今松村があげた餌を手押し車からついばんでいるのが見える。くちばしが金属に当るたびに「クラック、クラック」という音が聞こえる。
実はそこは居間というよりも主人が生活に必要なもの、ガスコンロ、鍋、やかんなどを集めた倉庫にいるような気がする。そして、松村がまだ電気が無かった頃に使っていたロウソクとそれを立てていたロウでいっぱいの皿。小さな炎だけの暗い孤独な夜が容易に想像できる。そして、3月に電気が来るようになってから電子レンジで温めた食料の食べ終わった皿。東京の医者が庭から採れる野菜を止めるように言ったので、彼はこのような出来合いのものをよく食べている。
吸い殻でいっぱいの灰皿、空のビール缶でいっぱいの袋、衣服の入ったダンポール、トイレットペーパー、箸、醤油と酒のびん、そして毛布の上に干し竿があり、キルトのジャケットとコート。冬のある日、彼はブログに「福島は寒い」と書くとすぐに衣服が届けられた。
この孤立した男は世界と全くつながっていないわけではない。電気がまだ無かった時に、車のバッテリーで充電したインターネットや携帯は松村にとってありがたいものだった。横浜の友達が彼の名前でブログを書いていたため、富岡の守り人は日本中、そして世界の支援者とつながっていたのである。
正午、松村は作業着に着替えた。牛達が餌を待っているのである。彼は48頭の牛を世話している。ここには12頭と、2頭の子牛、1頭のポニーは一段下がった谷の方で立っていた。いよいよあの巨大なビニールのボールを道路から運んで来る時間だ。ボールの中身は2011年の草で発酵している、そしておそらく汚染されている。松村以外にそんな草を必要としている人はいない。この餌やりをするために、1台のクレーン車、トラック、そしてもう1台のクレーン車が必要だ。この男に支援が必要なことがよくわかった。自主的に始めた動物保護は実にコストがかかる仕事になったのである。
これまでに犬達のほとんどは動物愛護団体が連れて行った。猫達には野生化したものもいる。しかし牛達は毎日1トンの餌を必要とし、松村はこれを一人で運んでいるのである。富岡は日本の一部であるから、住民は行政のサービスを受けられるはずであるが、ここは除外されている。郵便もここまでは来ていない。餌や物資が松村に送られる度に彼は何キロも離れた所に自分で取りにいかなければいけない。
自分で餌を取りに行くということは、ガソリンなど多くのコストがかかる。運が悪ければ彼は何キロも走って、挙げ句にウサギの餌ほどの量の支援物資を目にする。東京など大都会に住んでいる人達は牛がどれだけの量を消費するのか見当もつかないのだ。だが今はうまくいっている。12頭の牛、2頭の子牛、1頭のポニーは食べさせている。
松村は満足してたばこに火をつけ、1頭の牛の頭を叩いた。汚染された草を汚染された牛が食べる、意義ある結果を出すだろうか?政府の見解では全くそうではないであろう。政府は牛を殺すための注射器を持った獣医を福島に送り込んだ。富岡ではこれに反対の松村が憤る。彼はベジタリアンではない、彼は肉を食べるのには全く問題はない。しかし彼には動物を意味も無く殺すことががまんできないのだ。アントワーヌ サンテグジュペリの「星の王子様」に出て来る狐は言う、「君が信じた物には君は一生責任があるんだ。」これとほぼ同じことを松村氏は言う。彼の牛達は素晴らしく見える。それではなぜ彼らに生きる権利が無いのか?
20キロ以内の警戒区域では今なお原子力風評被害がある。今年政府はその範囲を10キロに縮小した