生命の劇場


あぁ、本音を申せば、ネットコミュにばかりかかずっていた昨今であった、貴重な時間を、やらなきゃいけない多くの課題を、今一度取り戻しにかかるべき、今後の計画である。

絵や詩の創作も、まったくもってふたたびイチからだ。他人様様にケータイ投稿、何かしらをひけらかし、あーだこーだ、と時間費やし、得たものも沢山あったが、そればかりやっていても限界芸術(あだ鶴見俊輔

読みかけの多数の書籍をひとつひとつ潰しにかかれ。
当面その記録を、片便りブログに収めていこう。誰のためにならない。単なる刺戟とモチベーション、一人一人や集団の情報でしかないネット空間だ。もうそれ以上のことを、私はここには期待しない。

         10/13



 環境文学を生命科学から読む、センスオブワンダー*レイチェル・カーソン*)以来、忘れかけてしまっていた大事なテーマを、彼女の遺作)同様に 生命の劇場*ヤーコプ フォン ユクスキュル*という講談社の文庫本が今手放せない。 エストニア生まれの生物学者、1944年彼の死去する1ヶ月前から出版社に寄稿していたが、著作は未完のままこの世を去ったようだ。

 動物学者≒機械論代表、画家≒芸術代表、理事≒議事進行役、宗教哲学者フォン・W≒形而上学代表、私=生物学者の著者)それぞれ五人がそれぞれの立場で対話がなされる形式で書かれている。言説、論は、学術的にも文学的にも、多彩な素質をもって読める。面白すぎる。目が離せない。あんまり知識がないが、どこから読みだしても興味深い。どんどん入り込める。眠くなるまで今夜は、彼の壮大な諸文を、今日の朝まで少し抜粋してみようと思った。文庫本数P程度だが。

 取り上げている、ゲーテ色彩論にある名文句、「眼が太陽のようになっていなければ、太陽はけっして見られなかったであろう。」…212項
生物学者と動物学者の問答のなかでの話しを切り出してみる、全文写。

 眼が太陽のようになっていなければ、
 太陽はけっして見られなかったであろう。
 このことに私たちは同意できますが、しかしいま、あなた(生物学者(著者))は、この言葉をさらに拡張して次のように言うことになります。
 太陽が眼のようになっていなければ、
 太陽は天空に光り輝かなかったであろう。
 あなたはこの主張の帰結が十分に理解されていません。たしかに、眼は疑いもなく生命の所産です。しかし、太陽を眼に依存させることによって、あなたは太陽も生命の所産にしてしまったのです。そうした依存性が成り立っのは、ただ、二つの場合のみです。つまり、眼と太陽の両方とも同じ神によって創造されたか、あるいは、太陽そのものが一種の神性であって、それが生物の眼をその像によって形づくるか、のいずれかなのです。
 二者択一の最初の場合には、旧約聖書の権威のみが挙げられます。すなわち、《はじめに神は天と地とを創造された》ということです。しかし、これには微塵の証明もありません。残る選択肢、つまり太陽そのものが反射鏡を創りだしたのであるから、太陽は何千もの環世界の中で映し出される高次の存在であると見なすのは、あなたにとってさえ極端すぎるでしょう」

 ここで、フォン・W氏が言葉をさしはさんだ。「二番目の選択肢は、古代ギリシア人の信仰とほぼ一致するでしょう。オットー(ドイツの神学者哲学者)のお蔭で私たちはそのことが理解できるようになりました。ギリシア人にとって、星のきらめく宇宙を包み込んだ天空は最高の神性であり、もちろん、太陽も光の担い手として一つの神性でした。こうした神性を人々に理解できるようにするために、それに人間的特徴を与えることが詩人や画家、彫刻家の課題となったのです」

 動物学者は笑ってこう言った。「あなたはまったくすばらしい神性を考えだしました。完全に無意味に回転し、あらゆる方向に光線を放って、少しも私たちの地球の生物とは関わらないような火の玉が神性というわけですか。しかし、そうなると、地球全体はそこに住むいっさいの生物とともに、太陽とまったく関係を持たず消滅するでしょう。 また、生物学者の主張では、この巨大な天体は眼のようになっている、つまり、人間の眼に依存しているということですが、実際にはこの天体は人間とは何の関係もないのです。
 太陽と人間のあいだに関連があるということを、ギリシア人の天文学者も本気では信じなかったでしょう」
 
 これに対して私はこう応答した。
 「あらゆる天文学者は、ギリシアにおいても現代においても、宇宙に輝く太陽の記述を仕上げるには、眼の感覚データに頼らざるをえませんが、そのデータは、環世界の天空に輝く太陽を観測して獲得したのです。非常に倍率の高い望遠鏡を用いるとしても、彼らが天体の恒星と太陽において見る諸性質は、ヨハネス・ミュラー(ドイツの動物学者比較解剖学者生理学者)が述べるように、彼らが感覚器官によって見つけたものを、外の世界に移し入れた標識以外の何ものでもありません。太陽に関する私たちの表象は、その形態と意味をもっぱら大脳の生きた知覚細胞に負っているのです。
 現代の天文学者は物質とエネルギーを確信しましたが、そのかぎりにおいて、太陽はエネルギーと物質の中心に他ならないものとなったのです。ギリシア人は全自然の中に絶大な神的生命の作用を見ました、そして、その神なる生命のたなごころにおいては、人間の眼と太陽は同じ重みを持っているのです。
 ただ一つのことだけは確実です。仮に太陽がつねに眼によって新たに創造されないとしたら、太陽は環世界の天空に光り輝くことはないでしょう」

 理事は次のように言って、一応この議論に終止符を打った。
 「この論争についてはいかなる一致も達成されないでしょう。というのも出発点が相互に排除し合うからです。外部から世界を観察する人にとっては、主体は消滅して実体のないものになります。また、内側から主体として世界を眺める人は、世界が、空間と時間の人間的な直感形式の枠の中に組み入れられていて、感覚器官のお蔭で存在するような事物だけで満たされている、と見るのです。たとえそれらの物が塵の粒のように小さくても太陽のように大きくても、です。
 こうした両者の矛盾は、イデアと現象が一致するような、さらに高次の観点から二つの立場の権限を認めることによってのみ、解決できるのです。プラトンがこの道筋を私たちに指し示しました。しかし、天文学者はこうした方向に向かうことを拒んでいます。もっとも、ジェイムズ・ジーンズ(イギリスの天文学者物理学者)のような幾人かの物理学者はおそらくそうした道筋を選ぶと思いますが。
 さてともかく、私は動物学者に、彼が批判したいという第二のテーゼについて述べてください」

……ダーウィズムの論争が続いて繰り広げられる。


環世界(Umwelt)…著者の思想の柱をなす大事な用語。環境世界が日本語と近いようだ。動物学から豊かな見識を見出だし、我々日本人に多くの所作を分け与えてきた日高敏隆氏によってこれを環世界と命名した。ユクスキュルの名著、「生物から見た世界」の翻訳にもあたっている。こちらのほうが重要な本、とのこと。これを読んではじめてそう知った。赤っ恥である。


ページ130を開いてみる、
……
…ここで興味深いのは、私たち人間における食物の摂取は、料理を飲み下すまでは経験に従い、それから先は身体の役割に従った消化に引き継がれる、医者が取り組むのは、とりわけ、こうした身体諸器官の役割であると言えますが、その役割とは、その確固として定められた非物質的な範型を生きた身体物質に刻印するものに他なりません。それゆえ医学はけっして機械論的な学問とはなりえない。なぜなら、力学の扱うものがもっぱら生命のない物質的元素の相互作用にすぎないからです」

結はかなり説得力を欠くが当時と現代ではなかなかむつかしい。だがそれまでの、討論の筋は、よくもまぁポンポンといろんな話しが入ってくるものだ。と感心する。深い中身もありながら、もしかしたら自分のいろいろな思索、ふと気付いたアイデア、過去の思考などがよみがえり、新たな刺激を与えてくれる、娯楽文庫としてもよいかもしれない。

昔の生きた人は私の生まれる前の、若者であり子供でありそして先輩である。書かれた物が時代の新旧を問わず、こうした種の本はとても楽しめる。いつかまた気が向いたら追記してみよう。


 …131項、
第八章 構成のトーン、特殊エネルギー、染色体

 登場者…理事、私、動物学者、画家

  キーワード
建築のトーン 構成のトーン ミュラーの特殊エネルギー 発生と行動と消滅‐生命のメロディー 空間へと移し入れられた時間法則 音楽的構成(作曲)の比喩 細胞分裂 染色体 刺激小体の鍵盤 モーガン 構造か総譜か



(生物から見た世界、著者、ユスキュル)

【環世界】について、序章一部抜粋

……………

生理学では、ダニは機械だと断言し、どんな生物も人間世界にある客体と見なす。技術者が自分の知らない機械を調べるように、しかし生物学者は、いかなる生物もそれ自身が中心をなす独自の世界に生きるひとつの主体と見なす。従って私ら生物学者は、生物は機械にではなく機械をあやつる機械操作系にたとえるほかはないのである。

……………

細胞の機械操作系の集団が働いたり休んだりする場があると想像してもよいのなら、それらの機械操作系はやはり空間的に切り離された個別の存在であるといえる。もしそれらが空間的に固定された知覚器官以外のところで融合して新しい単位になるという可能性を持たないとすれば、それぞれが孤立したままでいるだろう。しかし実際その可能性は存在するのである。細胞集団の知覚記号は、器官の外側で、動物の体の外で、集まってひとつになり、そのまとまりが動物主体の外にある客体の特性となる。これはよく知られた事実である。人間に感じられる感覚すべて、つまりわれわれに特異な知覚記号のすべてがひとつにまとまって、われわれの行為のための知覚標識として役立つ外界事物の特性となるのである。「青い」という感じが空の「青さ」となり、「緑色」という感じが芝生の「緑」となる。われわれは青いという知覚標識で空を認識し、緑色という知覚標識で芝生を認識するのである。