囁き

 「囁やく」ということについて…映画からかなり刺激されるところがありましたのでエッセイ的に追記しようと思いました。なかなかないなと。時々書籍を音読をして読むことがありますが「囁やく」ようにして音読を楽しむことはあまりなかったように思います。なかなかいいかもしれない、と。はじめて気が付き面白がっている最近ですね。特によかったのは、草野心平さんや尾形亀之助さん、ふたりとも詩の音がいいのです。

 また若い男の子女の子ならそれこそ耳元(ミミモト)で囁やくのもいいかもしれないでしょう。括弧笑い、)、子どもでもいい、夫婦恋人でも…愛する人と『囁やきあう』は、より言葉をより密に供与できる貴重な時空、心地よいレム状態、眠たげなノロケ、眠っている人の耳もとならば悪夢かもしれません。詩はどこから生まれてくるか?、神や天使や書籍や、機械や電話回線、猫も杓子もいろいろありましょうがやはり、異性の声でしょう、老若男女とにかく詩の言葉の密なるところの、実の隣人の耳元口元のなかの秘密の必です。

 囁き(ささやき)というのにも色いろな“音の色”がありそうな気がします。【音色】様々な楽器は(音階や強弱が同じであっても)様々な特徴の“ねいろ”を鳴らす。 などと辞書に書かれておりましたが。
 朗読は、けっこうそんな 【音 色 響き】 の楽しさを思います。まぁ、口笛でも鼻歌でもいいのですが、まーわたしにとって詩はその延長の感じです。

 しぃぃ [si;] い ず か

 ささやく ささ 
 つめたき よよ 
 夜の時雨(よのしぐれ)

 耳を澄ませ スマセ
 闇のまた 闇 とおく
 胸 のおく のおく
 ほつる唇 はつす
 ほつれど とき
 吐息 トイキ トオク オク
 とける
 雪解け
 聴ける
 吐気 
 トキ トキともに
 ゆきすぎる ふゆの 
 春の夜の また夜 
 ハルノヨノ   マタヨル 
 胸元 吹く風の 雪解け 
 ムナモト  フクカゼノ  ユキドケ
 小夜のよる其方の 溌す
 サヨノ ヨル ソナタノ   ハツス
 掠れ 擦すれ 沿われ
 カスレ  サツスレ  ソワレ
 吹き ふるわせる 息 息 
 フキ  フルワセル    イキ イキ
 交わす 掠れ 擦すれ
 カワス   カスレ  サスレ
 こわれ そわれ 囁やく 息 
 コワレ   ソワレ   ササヤク イキ 
 あいみて うちみて
 トキ トキ  ともに
 ささやき ささやく
 トキ トキ  ともに
 あいみて うちみて
 トキ トキ  ともに
 まどろみ まどろむ


 まどろむような猫の寝言。ことばの音遊びも、詩遊びもいやちまたの詩もそんなノリでいちどきり?、まどろっこしいまどろみの内奥に広がる愛唱歌を、『囁やく』ようにして音を発する、意外や、けっこう意外にやってみるのも、ふーん、なかなか一興であります。…『別にいいんじゃないでしょうか、そういう仕方の詩の朗読も…朗読とは呼ばない…それで?、だから?どうだっていうのだい?、??。』……というのが今回の寄稿のテーマです。

 さて、こちらの映画のように、『喉を使わないで』言葉を発する。一部始終『こそこそ、コソコソ、ぼそぼそ』と囁やくだけのことをやっているのですがなかなか眠たくなります。甘美な愛唱歌など期待しても出てきません。

 しかし、なかなか無いな、と思います。囁やくだけの台詞しかない作品は自分は他に思い出してみても思いつかないものでした。そんな映画であることにちょっとびっくりもしました。 

 囁やく以外に、語り口は、呟やく(つぶやく)、でもいいのです。だが語ると云っても、
*『 吐(は)く、 喘(あ)えぐ、 呻(う)めく、 哭(な)く、 嘯(うそぶく)く、 吟(ぎん)ずる、、』色んな発声の仕方がありそうです。* 

 口へんの漢字から様々な言葉の発しかたを想像してみます。やってみて真似てみるのも詩読としては、ひとつの実践なんだろうけど、最近は、囁やくのがもっぱらです。エネルギーがあまり要りませんから。朗々としたそうした音声語りのなかでまわりに迷惑もかからないから気楽です。

 勿論もっといろいろな物理的な発声形態があるでしょうが、そうしたなかには、心情や身体にかなうような諸々の形態も加味されてもいきます。

 [ 笑う(ように)、喜ぶ(ように)、欠伸する(ように)、嘲(あざ)ける(ように)、溜め息をつくように、噎(む)せる(ように)]
……心情や精神や肉体などが物理的な発声の形態に副詞的に味つけがなされいきます。

 笑うように呻く。とか、欠伸するように吟ずる。とか、どうやってやるのかわかりませんが、役者ならきっと訓練しているにちがいありません。芝居をやったり観たりする人いるからいつか苦言してやろう。心情を様々内面に潜ませながら、さまざまな発声形態を使いわけられるように。それが舞台で演出できればもっといい芝居ができるかも、よ。といつか苦言してやろう、と最近たくらんでいます。

 さてこの映画ですが演者は場面場面の心情や内面も極力奥に隠しあからさまに見せません。ことに日本の映画なんかはどうもそんな感じがしてしまう。役者がみんな黒子。人形劇に近いような演じかたにもみえ、それが意外と、ウケがいいのか、どうなのか、わかりませんが、ミニシアタなんかは特にそのケがある気がします。

 どうでもいいことも、そうして役者の内面に感情移入ができるのは、観る客のこちらが積極的に入り込んでしまいたくなるようにさせてしう。過剰な振る舞いや台詞を表に出さないぶん客人にそうさせてしまえる役者の才知でしょうか。こうした囁やきに誘い込まれていくのもひとつの秘訣なんだろうなと思います。『麿赤児もこのヒロインもさすが。』とささやきながら『さすが役者冥利』とささやきながら、わたしなどが独語を吐いてもあまり面白くありませんからもう少し映画から考えてみたことを述べますと、こうした台詞の手法の一貫性や作品全体のストーリー性、場面場面での登場者の心情・気色、どれも惹き付けられるだけの“かなうもの”がある。上手くまとまっていることについて少し考察してみるのです。

 台詞において、『*』のどれでもなく、『囁やく』でなくてはならない必然が映画舞台のなかにあるのでしょう。『台詞の形態』が、物語(ストーリー、思想、精神)の『内面』、映画のツクリやコンセプトといった『内容』。それらどれもが有機的にかみ合わせられていく、どちらが後か先かではなく果たして作品独特の全体の印象を上手くそうして引き出している。

 果たしてどうしてか?、と考えたりもします。つまりは『囁やき』に徹する台詞の仕方と様々な作品要素とが不可分なものとして、どうして必然の仕方(形式)として上手くマッチングされているか、果たしてどうしてかな?、と考えたりもするわけです。

 それは、卓越した予見が制作のなかにあったにちがいないでしょうし、またこうした台詞形式が選ばれ与えている所以は一言ではまとめられない、構想時に、『これだ』という確信があったにちがいありません。しかしそうした確信は半ば安易に言葉にできない『これだ』というもの。即ち『直感』でしょう。

 囁やきの台詞形式と映画の内容とは不可分にして、作全体を醸し、引き立てるようにして、相乗的な効果を生むように仕掛けていきます。映画のなかの細かな場面場面の台詞(部分)が全体に行き渡らせようにして働きます。そのストーリーと噛み合っていくようにこうした台詞形態も噛み合っていくのです。安易な作為や作意でとってつけた類いではない、外面的な表層的な体裁の類いではない、あらゆる要素とが自然と結ばれ果たされていけるものなんだろうと思います。

 声にしないで呟かれるこうした『囁やき』は、【独語≦二者との対話】という台詞形式で示されています。冒頭シーンでは、息を殺すようにして詩的に囁やくようにして台詞を吐きます。あまり人目のつかない静寂な安らいだ場所、主人公の殺し屋が天涯の場所とも思える理想の部屋を探し求め、ヒロインを頼りにいろいろな部屋を訪ねて歩きます。二人には相思相愛は皆無ですが事務的なやり取りのOLもまた似たような部屋をどこか【自分の心の内で】探していたのかもしれない。そんな些細な数日を物語っています。

 物語の台詞はすべて囁やくカタチで進みますが、【二人の独語は独語ではなくあくまでも二人の対話による】という点は注目するところです。ですから、先ほどあげた発声にいろいろな形態があるにしても独語にならないかたちで、『囁やく』はそれにかなっているのかもしれません。その絶妙な境界ラインに沿いながら、映画全体の一貫した物語も台詞もその境界を綱渡りするかのように流れていきます。映像のモノクロームの舞台の静けさのなかを、亡霊が吐くような台詞が何分かしてまた吐かれ、台詞と台詞とが交互にゆっくりと映画の物語を進ませていきます。非常に退屈で観た人はきっと居ないと思いますがかいつまんでみるとそんな調子です。

 制作者の発想や才知というよりも、映画は映画の持つ様式や形式を生かしていくことを考えて制作されているのでしょう。 無論『囁やく』と云っても、映画でよくするところの甘美な愛の囁き合いはなく、ましてや立ち聞きの悪い他人の噂話やひそひそ話もありません。『人が囁やく』というのは実はこういうことなのかもしれない。と感じもします。対話と独語の端境(はざかい)の、どちらともとれない、いやどちらともとれる、発声形態、『囁く』ということの今まで考え及ばなかった発見であり驚きでした。シンと静まりかえったモノクローム映画のなかで言葉が独語に近いようでありながらも実際は相手と交わしているという状況は、精神的、肉体的、社会的、異質な距離と状況をつくりその閾のなかで、ぼそぼそ、ひそひそ、と囁やいているのです。独語ナレーションは全くといいありません。うしろ暗い白黒の人間的な薄気味悪さや暗さも不思議とあまり感じさせないで観せています。観客はなかなか日常にはない言葉の交流。映画ですらもなかなか遭遇できないような異様な時空を感じさせてくれます。作品の狙いがなにであるかどうかはよくわかりませんが、そのへんのことに、かなり驚きちょっと記してみたくなり記しています。
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 エッセイや随筆にしても、文芸や詩にしても、読む・書くという言葉の交通においても、モノローグとダイアローグという境界ライン。それがはっきり定まっていない曖昧なところ。それを文のうちから見つけ出すことも要るのだろうなとも教えられます。おそらくそれは『文体』の話しになるのかと思いますが、いずれにしても映画で貫かれた『囁やく』だけの台詞形式と、物語の内容とが、無理やりくっつけられているのではなく、やはりしっくりといく相性のいいところで、自然と上手く出来、みせています。
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あるとき、ある人と話しているとき、話しながら
あるとき、ある本を読んでいるとき、読みながら、
ときどき、以下のようなイメージが再現されます。


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  | 内容 ┝形式
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    かつ
  ┌────┐
  | 形式 ┝内容
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  ゆくゆくは


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 ←| 作品 |→
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  となる

 A)生み手(作品)の内容(物語、テーマ、あるまとまった考えや見方)それに相性のいい形式とは、不可分にあり、互いに内包し合っている。
 B)創作されたモノが外に拡張させていくようになること。そのように読者や受け手に感じとれること。
 固有の創作が作品となるための条件、創作のそれは一篇の詩でも、一冊の本でも、一本の映画でも、写真でも、固有のアート創作でも、作品となり芸術性を持つ必要条件と感じたりもしています。一篇の詩でも一冊の本でもBの矢印が感じとれなければいけません。芸術性だけにとどまりません。
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 次回は囁やくというコトバやそれにまつわる随想をもう少し続けて綴ってみようと思います。
https://m.youtube.com/watch?v=ZzbuzMncgNU
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