アルフレッド・アルテアーガ+高良勉

琉球とメキシコから生まれた二人の詩が縒り合う、地上の珠玉の音楽 
★★★★★ --- 本 ---
Alfled・Arteaga & Ben Takara . 
詩のなかから導出される未知なる冒険 南米の「サウダージ」や、琉球の「ナツカシ」は、どちらも意味としてなんとな〜くわかっているようで、辞書にならない、たいへんな言葉の気がする
言葉の持つはるか向こうの、人間の持つ内奥を垣間見る
詩のなかからそうしたものを「感じとる」



 
  チカーノという文学

Alfred Arteaga

アメリカ合州国とメキシコの間に横たわる裂け目は、アングロ・アメリカとラテン・アメリカの、第一世界と第三世界の境界をなしている。そしてここがチカーノのテリトリーである。かつてはメキシコであった土地で、メキシコ人とその子孫たちが、ひとつの文化的・文学的アイデンティティーを形成している。 チカーノは自分自身をハイブリッド(混成体)な主体とみなす。アメリカ合州国人であると同時にメキシコ人でもあり、同時にそのどちらでもない、というように。
なぜハイブリッドといえば、自らの文化的・言語的な特徴があまりにも多様で、単一の歴史的解釈や物語をこばむからである。アメリカ国内で否定的に語られることの多いチカーノは、国家国民への帰属に対して曖昧である。そのため、アメリカの国家的視点からみると、チカーノはいつも追放可能な労働力に過ぎず、本当のアメリカ人にはなれない。一方、メキシコという国の側から見れば、ポチョ(アメリカ化したメキシコ人をさす侮辱語) すなわち真のメキシコ人とは似ても似つかぬ衰弱した弱い人々である。チカーノの曖昧さはこんな自己規定にも現れている。われわれが国境を越えたのではない 国境がわれわれを超えたのだ


※われわれが国境を越えたのではなく国境が後からわれわれを引き裂いた

(-_-)

……
 チカーノが入植民者よりも前に居た先住民としての意識を持っていることの宣言である。

 言葉の問題を考えてみよう。言語学的に見れば、チカーノは英語とスペイン語を交えて話す。どちらがどの程度の割合で混ざりあっているかは、話し相手、状況による。この場合の英語とはアメリカ英語であり、スペイン語とはメキシコのスペイン語のことで、とりわけメキシコのスペイン語とは、メキシコ先住民の言葉であるナワトル語にどっぷり浸かりすでに変容したものである。さらにチカーノが併用する言葉には他にも多様な変種があり、とくに「カロ」と呼ばれるスラングは独立した言語態となっている。また、チカーノの言葉遣いの変種は「政治によって規定された文化的自己顕示」を色濃くのこす。

※ 昔、現代美術家だか詩人たが忘れたが一人のメキシコ女性が公園に縄を張り詩を読むパフォーマンスを話で聞いたことがあった |(-。-)| 
…… 

 複数の国家言語(英語、スペイン語、ナワトル語)を採用し様々な社会的言説形態(法律、学問、家族…)を渡り歩くことでチカーノは日常生活に張り巡らされた権力関係のなかに踏み込むことになる。
……
 厳しい言葉の選択の機会にさらされているチカーノは一方で、言語的紛争意識を文学的創造の場で活用する。詩や散文や劇を通じ、チカーノ文学は支配的言語
※ ×英語、×スペイン語、×ナワトル語、×カロ 混成した言語が >制度的言語> 権威> 政治> 権力> 
を次々と転倒させていく ※
 
 チカーノ文学のそうした表現形式が、アイルランド、インド、パレスチナ、旧ユーゴスラビア、といった混迷に置かれた人々にも投げかけれ注目されていく。 バスク人ツチ族、ドイツのトルコ人といった人々の状況にも当てはめることができる。チカーノのそうした詩的実践を読み解くことは今日の世界の民族、その問題、その存在を問い直すまたとないきっかけになるだろう。

(2005年)
トリックスターとしての詩人☆札幌大学「ペリフェリア」文化学研究所創設記念シンポジウム報告集』訳・編、今福龍太




「手水」 高良勉

手は言葉より早く
何かを祈り 伝える
手段ではないか
私は手のことばで そっと
あなたにそれを伝えたい
青空がわらっている
真紅なていごの花が
咲き乱れて落花する
もう何日間も
雨が降らない
アパートの 隔日断水
稲作発祥の神話のふる里
受水走水の岩清水も
チロチロ涸れていきそうだ
 雨降ろち 給うれ
 水降ろち 給うれ
内耳の奥で 誰が謡うのか
雨乞歌が響いている
それでも隆起珊瑚島の水脈から
清水は湧き
悠久の海に流れ注いでいる
島人たちは泉を忘れ
釣井戸を埋め
共同井戸をみすてて
手水の縁の故事
を忘れていく
天がわらっている
泉のほとりでは
純白のイジュの花が咲き
長い黒髪の乙女が
水も漏らさぬ心を添えて
手水を飲ませてくれた

 むかし手にくだる 情から出じて
  なまに流れゆる 許田の手水

ああ ブルドーザーで
シイの樹海倒し
イジュの花を埋め
山肌をコンクリートで固め
何百億という大金をかけ
はるかな山脈のダムから
運ばれてくる
塩素やトリハロメタン
たっぷり入った 水道水よ
でいごの老樹がわらっている
ダム建設に抗う
住民の涙も涸れていく
でいごの花が
咲き乱れる年は
大旱ばつがやって来るのです
 雨降るち 給うれ
 水降るち 給うれ
マーニ(クロツグ)の葉を
振り上げ 振り降ろし
素焼きの水がめのまわりで
雨乞い謡を舞う
白装束の女神たち ささげる
手水は消えるとも
私は小さな娘の手から
聖なる泉の
手水を 祈り 飲む


『老樹騒乱』  高良勉

琉球語
  /日本語

口あきとーる干瀬ぬ  
  /閉じない環礁の
潮路から  
  /潮路から
ニライ・カイぬ御神が
  /ニライ・カナイの神が 
渡てぃいめんせーし信じとーる
  /渡り来るのを信じている
村んかい
  /そんな村に
革命信じたる息子や
  /革命を信じた息子は
振り別りたん
  /決別した
やしが
  /が
村みーしてぃたるいきがんぐゎ
  /村をみすてた息子を
あんまーや みーしてぃらん
  /母はみすてない

小満芒種ぬ夕間暮
  /小満芒種の頃の夕暮れ
かんだ葉くさじぃがちー
   /かずら葉をもぎりつつ
木霊ぬ話ちかすたる
  /木霊の話をした
あんまー額かい刻まったる
  /母の額に刻まれた
皺かい拡がてぃいちゅるうむい
  /皺に拡がる幻想を
肝ふがすぬくとーねーらん革命んかい
  /決して充たすことのない革命に
いきがんぐゎや命かきとーん
  /息子は命をかける
あたらいきぐゎかい
  /そんな息子に
足ぬよーてぃいちゅるあんまーや
  /足はめっきり弱った母は
たゆいくぃりんちたぬむん
  /音信をくれとせがむ
村ぬ家んかいや電話やねーらん
  /村の家には電話がない
うふあわてぃぬ電話や
  /緊急電話のときは
共同売店かいいすじゅん
  /共同売店に急ぐ
足ぬねーたるあんまーんかい息子や
  /足の萎えた母に 息子は
なまなまーし 電話すん
  /不定期の電話をする
黒びちゃいする電話ぬあがた
  /黒く冷たい受話器の彼岸に
息子んかい あんまー姿やゆーわかとーん
  /息子のイメージは確かだ
あんまーや 夕間暮ぬ庭うてぃ
  /母は夕暮れの庭で
うとぅりたる耳んかい 呼び出しぬ声ちちゃん
  /萎えた耳に 呼び出しの声を聞いた
あんまーや なま
  /母はいま
大昔から石くびり坂
  /悠久の石畳の上を
ぐぅにぃーぐぅにー はーえーそーん
  /転げるように疾走する
あんまー額ぬ なま汗よー
  /母の額に脂汗がにじむ
なま汗じーじー  頭わいん
  /汗は石となって額を割る
あんまー後うてぃ
  /母の背中に
がじまる樹がうふどぅもーい
  /榕樹が一斉に鳴る
嵐ぬちゅんどー・隆起ぬちゅんどー
  /嵐の先ぶれ 隆起の先ぶれ
電話とぅてぃん
  /受話器の向こうで
あんまーや息ぜーぜー
  /母の息はせわしい
「もしもし]
  /「もしもし」
「今年ん、また、けーゆーさんどー」   
  /「今年もまた帰りません」
あんまー うびじぬっぅむぃや
  /母の一瞬の幻想は
振い乱りたる白髪ぬぐとぅ
  /振り乱れた白髪の
くじりてぃ わっくゎてぃ いちゅんど
  /砕けた波 
  



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