幼い頃のときだった。いえの裏の滝の落ちる音が耳について離れない
夜、寝床で眠れないとき、いつも音に魘され、ラジオをつけては
スピーカから聞こえるおしゃべりや音楽を聴きながら、忌まわしいその幻聴を解消した

しかし危険な予測を前もって知っていて、待ち構えているうちに恐怖は少しづつ消え失せた。

シャーシャーと寝耳に入る水の音の恐怖はいつしか自分は音楽として聴くことができるようになった。

いつしかラジオも消し、耳から襲う魔的な幻聴がからだを襲う。心臓をどぎまぎさせ、頭が膨らみ、両腕が糸のように細くなり、特殊な重力場に寝かされる。
ぐるぐると頭はゆり動かされ、天井から出よう出ようとたくさんの手がそれをこじあけようと脳天を押し上げる。私は壁にはりつき 目を見開いたまま、その幻影がつきまとう。

あの、幻聴と幻影が
来たね、来たね、ほら 来たね

そうして精神の錯乱をとても楽しんだ。

それができたのは、自覚された精神を意識できるようになってからだった。

       *

画塾に30前後の一人の女性がその話しをすると似たような症状を憶えるという
今でも、彼女はようやく精神治療を退院したとのこと、いつも明るく元気で快活に接するものの、内向的な生活にいったん入り込むとたちまち in in in in in 中へ 中へ 沈んでしまう人だった。

去年彼女に年賀状を書いたが、病棟までは届かず、直接手渡ししよう、元気な顔をみたいもの。

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日記は、実生活に沿い、生活力の、また芸術への意欲を、実際的に執りおこなうための手段、ゴッホの手紙やグレーの日記のように。しかし、どうだか、
そんなことをやっても始まらない。フリメイスンのマスゲーム。大事な物事を見失いそうだ。体質的に受け付けられないまま、ネットシステムの不自然なコミュニケーションにズブズブ足をとられて、架空の人間交流やセカンドライフは禁忌。閾をつくり、あくまで自身のところから外界のきづき。自身の確認と、反省のための日記。その度をこえぬよう注意せねば、さもないと大事な物事を見失う。1人で生活していると、こういうものに染まりやすいのだろう。

キワカレを食べる。
美味しい。